麻植郡学島二ツ森に住んでいた藤桃洲(1781-1837)は奇人として知られ、数々の愛すべき逸話を残している。桃洲の師である藤桃斎(1752-1820)は、江戸に遊学して画名をあげ、諸国を遊歴したのち京都に長く住み、当時、貫名海屋と共に阿波人の京都における双璧と称されていた。桃洲はその門人だったが、のちに養子となった。
藤桃斎(1752-1820)ふじ・とうさい
宝暦2年阿波生まれ。名は尚董。字は子正、通称は花屋宇右衛門。美馬郡脇町の人。別号に愛山がある。狩野派の河野栄寿に画を学んだ。のちに江戸に遊学し画名があがったが、諸侯の招聘には応じなかった。諸国を遊歴したが京都に長く住んだ。西本願寺再建の折にその障壁画を描いたという。円山応挙の家に出入りしていたが、応挙が自分の門下に入るように勧めたが応じなかった。文化年間、世情を嘆き、帰郷して優遊の生活を送った。文政3年、69歳で死去した。娘の藤三保も父に学んで人物画をよくした。
藤桃洲(1781-1837)ふじ・とうしゅう
天明元年阿波生まれ。名は権之助、別号に蟻城、勝董がある。麻植郡学島二ツ森に住んでいた。藤桃斎の門人だったが、その後養子となった。極貧の生活の中、画のほかに尺八、琴を愛した。画風は独自のもので、師の桃斎とは異なり美しい色彩と流麗な墨線で描いた。作品は少なく地元に少数残っているだけである。天保8年、57歳で死去した。
桃洲は奇行で数々の逸話を残している。
人に会うことを嫌って、近所に家がない一軒家に住んでいたが、用があると尺八やホラ貝で一番近い上田屋という店に合図をしていた。無欲で家に一文の蓄えがなくても平気で、琴、尺八を楽しんでいた。米がなくなると尺八を持って出かけ、門付(大道芸の一種)をして米銭を得た。
掃除をしないので部屋は塵埃にまみれ、机の横においてあった筍が芽を出して葉を伸ばした。桃洲は非常に喜んで筍の成長を楽しみにしていた。あまりに汚い格好をしていたので、ある人が絽の着物を贈ったところ、近所の子供が螢籠を作っているのを見て着物を裂いて与えてしまった。破れた着物を見かねた近所の人が絹の着物を贈ったところ、それを肌着にして上にまた破れた着物を羽織っていた。
ある時、桃洲の琴が破れているのをみた近所の人たちがお金を出し合って金一両を贈った。桃洲は非常に喜んで徳島に琴を買いに行ったのだが、手ぶらで帰ってきた。尋ねると、徳島から帰る途中に宿屋で琴を弾いていたら、女中が琴の音をしきりに褒めるので彼女に琴を与えたと言う。吉野川が氾濫して多くの人馬が溺れた時、桃洲の身を案じた近所の人たちが、水がひいた後に駆けつけてみると、桃洲は部屋の中に桟を設け、妻と二人でその上に乗って琴を弾いていた。夏は完全な裸で過ごした。
徳島(12)-画人伝・INDEX
文献:阿波画人作品二集、阿波画人名鑑