長谷川沼田居(1905-1983)は、現在の足利市県町に生まれた。15歳で田崎草雲の門人・牧島閑雲の内弟子となり、南画の基礎と漢学を学んだ。20歳の時に上京し、ニコライ堂の牧師で洋画家だった閑雲の子・如鳩と同居して絵画修行を続けていたが、如鳩の帰郷にともない足利に帰った。
足利では、地元で開催された展覧会に出品していたが、昭和7年、下野新聞社主催の栃木県美術展に出品していた鉛筆画が審査員だった小杉放菴の目にとまり、放菴の紹介で再び上京して田中咄哉州(以知庵)の内弟子となった。その後、松林桂月や奥村土牛の教えも受けたが、画壇の裏側を知り嫌悪感を持つようになり、また、経済上、健康上の理由も重なり3年で帰郷、再び牧島父子のもとで画技の研鑽に励むことになった。
昭和35年、55歳の時に白内障のため右目の不調を訴え、翌年手術を受けたが、術後の経過が芳しくなく、さらに翌年再手術を受けた。しかし、右目の視力が戻ることはなく、左目の視力も衰えて行った。
視力の衰えとともに画風は大きく変化していった。細かな表現が困難となっていき、色彩は強くなり筆触も荒くなっていった。鉛筆やペンによる細密描写に替わって毛筆による作品が多くなり、書も手がけるようになった。
昭和40年、右眼を摘出、その8年後にはほとんど見えなくなった左眼も摘出し、68歳で全盲となった。失明後も「空眼縣山人」と名乗り描き続け、主として書を手がけ、書と絵が融合した独特の表現を生み出した。
長谷川沼田居(1905-1983)はせがわ・しょうでんきょ
明治38年栃木県足利郡筑波村大字県(現在の足利市県町)生まれ。本名は勇。大正9年牧島閑雲の内弟子となり南画と漢学を学んだ。昭和元年上京し閑雲の子・如鳩と同居して絵画を学ぶが、昭和4年帰郷。同年第3回上毛美術展で三等に入賞。昭和6年第1回下野美術展で二席に入選。このとき審査員だった小杉放菴に認められ再上京し、放菴の紹介で田中咄哉州(以知庵)の内弟子となるが、3年後には帰郷した。昭和23年生涯唯一の個展を足利信用組合で開催。昭和35年頃から視力が減退し、68歳で全盲となるが「空眼縣山人」と名乗り、書と絵が一体となった表現で描き続けた。昭和58年、78歳で死去した。
栃木(29)-画人伝・INDEX
文献:心眼の画家 長谷川沼田居、北関東の文人画