岸竹堂(1826-1897)は、彦根藩士の家に生まれ、11歳から地元の狩野派・中島安泰(不明-不明)に画を学んだ。その後、師の安泰から京都でよい師を求めるよう勧められ、17歳の時に京都に出て当時朝廷の御用絵師をつとめていた狩野永岳(参考)の門に入った。
しかし、粉本を写すことを基本とする狩野派の学習法に疑問を持ち、1年もたたないうちに永岳のもとを離れ、当時京都で一大勢力になりつつあった岸派の三代目・岸連山の門に入った。
連山のもとで学ぶうち、その人柄や才能を認められ、連山の婿養子となり岸派の家督を相続することとなり、後継者時代から御所造営に際して障壁画を描いたり、岸派初代岸駒の代から縁のある有栖川家に出任するなど、多方面で活躍をみせた。
またその画風は、岸派四代を継承しながらも、師の画風に拘泥することなく、諸派の技法を学び、伝統的な写生に洋画の技法も取り入れ、近代日本画としての写実的描写を追究し、次世代の画家たちにも大きな影響を与えた。
明治維新後の困窮期には、友禅の下絵制作も引き受け、従来の固定化した図案ではなく、写生を徹底した新感覚の図案を試み、好評を博した。一方で、博覧会や絵画共進会で受賞を重ね、その審査員や京都府画学校教授となり、帝室技芸員に任命されるなど、森寛斎、幸野楳嶺らとともに近代京都画壇の黎明期に活躍した。
岸竹堂(1826-1897)きし・ちくどう
→岸駒の跡を継いだ岸岱と岸派の画家
中島安泰(不明-不明)なかじま・あんたい
彦根藩士。名は牧太。別号に玄々斎、素鶴がある。因幡出身で江戸に出て狩野派に学び、帰郷途中に彦根藩士の養子になったと伝わっているが、詳細はわかっていない。彦根で焼成された湖東焼の絵付師や岸竹堂に画を教えた。庶子時代の井伊直弼にも画を教えており、直弼が藩主となって江戸に出てからも画の注文を受けていたと思われる。
滋賀(22)-画人伝・INDEX
文献:彦根ゆかりの画人、近江の画人、近江の画人たち