画人伝・熊本 日本画家 風俗図・日常風景

37歳で急逝した新進気鋭の新派画家・高橋廣湖

浦田天鹿(高橋廣湖の前号)「青砥藤綱探銭図」熊本県立美術館蔵

熊本における日本画近代化の流れは、杉谷雪樵がその堰を切り、雪樵没後は門人である近藤樵仙がその路線を引き継いだ。そして、また別の流れの源となったのが高橋廣湖である。

高橋廣湖(1875-1912)は、雲谷派の画家・浦田長次郎(1846-1913)の長男として熊本県山鹿市に生まれた。父の長次郎は矢野家六代良敬に学び、雪翁、雪長と号した。また、「観松堂」の堂号を持つ画家たちの領袖で、山鹿、菊水地域の神社拝殿にはその観松堂一派による絵馬が数多く残っている。浦田家は代々画家の家系で、廣湖の弟である二男と四男も画家であり、四男・四郎(号は湖月・廣香)の子は、東京美術学校に学び、日展の重鎮として活躍した浦田正夫(1910-1997)である。

廣湖は、天性の資質に加え、絵描きを生業としていた家庭環境の中で育ち、矢野派の絵画様式を幼いころから父に学んだ。20歳の時に熊本市に出て教師をしていた時、熊本を訪れていた女優・高橋こうと出会い、画才に感銘を受けた高橋の導きで明治30年に上京、歴史画の松本楓湖に師事した。その3年後には独立して、巽画会や日本美術院二十日会に参加、明治34年の春と秋の日本美術院に出品した「天孫降臨」で銅章を受け注目され、岡倉天心に認められるようになった。

廣湖は、天心率いる新派の画家として、歴史画を中心としたさまざまなジャンルを研究し、また果敢に革新に挑み続けた。近代絵画としての写実性と表現性に着目し、横山大観、菱田春草らが提唱した朦朧体の手法や西洋画の遠近・陰影法などにも取り組み、ときには裸婦を描くなど前衛的な制作活動を展開した。その一方で巽画会の中心的画家として評議員、審査員をつとめ、初期日本美術院をはじめ、紅児会、二葉会などにも参加した。明治42年の日英博覧会においては今村紫紅と共に内務省から出品を依嘱されるなど、画家としての評価を高め、画壇的地位を確立していった。

新進気鋭の画家として、郷里熊本の若者たちの目標的存在となった廣湖だったが、明治45年、朝鮮公使をつとめていた花房義質から依頼された《花房一代記絵巻》制作のために朝鮮・満州を取材で訪れ、その際に罹患した猩紅熱のため、帰国後、37歳で急逝した。

高橋廣湖(1875-1912)
明治8年熊本県山鹿市生まれ。本名は浦田久馬記。のちに女優・高橋こうの養子となり高橋姓を名乗った。父長次郎は、矢野良敬に学んだ雲谷派の画家で、画塾「観松堂」を開き県北で一家を成していた。明治25年、17歳の時に熊本在住の南画家・犬塚松琴に師事した。その3年後に初号である「天鹿」を名乗って熊本市に出て、絵画研究所「共進舎」の教員となった。この頃、熊本を訪れていた女優・高橋こうと出会い、廣湖の画才に感銘した高橋の勧めで上京して絵の修行をすることになる。明治30年、22歳の時に単身上京、松本楓湖の画塾「安雅堂」に入門した。24歳の時に日本美術院に初入選、二等褒状を受けた。この頃、楓湖から「廣湖」の雅号を授かり改号した。その後日本美術院、巽画会を中心に、二葉会、紅児会、歴史風俗展などの展覧会に出品、受賞を重ねた。特に巽画会では、中心的画家の一人として活躍、評議員、審査員をつとめた。明治44年、36歳の時に巽画会主催で上野竹之台陳列館で個展が開催された。明治45年、取材のため朝鮮・満州を訪れたが、現地で病に倒れ、帰国後37歳で死去した。

浦田長次郎(1846-1913)

弘化3年山鹿市生まれ。雪翁、雪長と号した。矢野家六代矢野良敬に雪舟流雲谷派の画法を学び、山鹿で画塾「観松堂」を主宰していたが、その伝記は明らかではない。観松堂と号した絵馬が、山鹿、菊水地方の神社拝殿に多く残されている。大正2年、68歳で死去した。

熊本(12)-画人伝・INDEX

文献:熊本県の美術熊本の近代日本画、千住に愛された日本画家-高橋廣湖




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