桃山時代から続く京狩野家は、初代山楽、2代山雪、3代永納と活躍したが、次第にその活動は低迷していった。一方で江戸に下った狩野派は、江戸幕府の御用をつとめ、江戸狩野として江戸時代を通じて大きな力を持ち続けた。京狩野が再びかつてのような勢いを取り戻すには、幕末に登場する9代永岳の代まで待つしかなかった。
京狩野家9代・狩野永岳(1790-1867)は、京狩野の絵師・影山洞玉(のちの狩野永章)の子として生まれ、京狩野家8代永俊の養子となり、27歳で家督を継いだ。早くから画才を認められていたと思われ、初代山楽の桃山風の豪壮な画風を基本に、当時流行していた四条派をはじめ、南画、岸派、復古大和絵など諸派の画風を積極的に取り入れて自分のものとし、独自の画風を確立していった。
当時の京狩野家の主な仕事は、禁裏(朝廷)や摂関家の九条家、同家と関わりの深い寺院などの御用だったが、永岳の代には彦根藩井伊家の御用などもつとめ、富商、富農層にも広く受け入れられた。その名声は京都周辺だけにとどまらず、飛騨の高山地方などにも有力な支持者がいて、永岳に入門するものも多かったという。
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禁裏(朝廷)の御用をつとめたのは、土佐家、鶴沢家、京狩野家の3家だったが、歴史的経緯から格式および待遇に歴然とした差があり、京狩野家は最も格下だった。しかし、永岳の代になってからは重要な障壁画を多く手掛けるようになり、京狩野は幕末になってかつての輝きを取り戻すことになる。
彦根藩との関係も深く、御用絵師となった時期は定かではないが、取り立てたのは井伊家13代の直弼だとみられている。永岳はその20年以上前にも長浜で仕事をしており、本願寺別院大通寺の書院新御座の障壁画は30代の作である。ほかにも曳山の襖絵や個人宅のハレの日の替襖の画などが長浜に残っている。
「富士山登龍図」は、軸心に1852(嘉永5)年、彦根白壁町(彦根市本町一丁目)の御用表具師によって表具された旨が記され、箱書には、彦根藩主井伊直弼の御前で永岳が揮毫したものを御典医の中嶋宗達が拝領したとある。
狩野永岳(1790-1867)かのう・えいがく
寛政2年生まれ。影山洞玉(狩野永章)の子。京狩野家9代。名は泰助、字は公嶺。別号に山梁、脱庵などがある。京狩野家8代永俊の養子となり、永俊の死により文化13年家督を相続した。京狩野家の伝統的画風に四条派や南画など諸派の表現を取り入れて独自の画風を確立し、妙心寺、法光寺、桂宮御殿(現二条城本丸御殿)などの多くの障壁画を手掛けた。禁裏(朝廷)や摂関家の九条家、寺院などの御用のほか、彦根藩井伊家の御用もつとめた。慶応3年、78歳で死去した。
滋賀(14)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人、彦根ゆかりの画人