
庭山耕園「舞楽図」
庭山耕園(1869-1942)は、現在の兵庫県姫路市に生まれた。庭山家は代々姫路藩の酒井家に仕えており、父は大坂の蔵屋敷の仕事に携わっていたが、明治初年の廃藩で職を失ったため家族で大阪北船場に転居した。耕園は幼いころから画を好み、13歳頃に近所に住んでいた上田耕冲の門に入った。師の耕冲は、50歳余りも年が離れていた耕園の非凡な才能を愛し、一番弟子として可愛がってくれたという。
花鳥画を得意とし、内国勧業博覧会に続けて出品して画家としての評価を得た。その後は、藤田家をはじめ、久原房之助、川崎芳太郎ら実業家や素封家のパロトンを得て経済的に安定したことなどから、積極的に公募展に出品することはせず、「船場の絵描き」として床の間に映える作品を描き続けた。表千家との関わりも深く、晩年には茶道関係者に好まれる小品も多く描いている。
庭山耕園(1869-1942)にわやま・こうえん
明治2年姫路生まれ。名は桂または桂三、通称は慶蔵。別号に芝蘭香處がある。明治初年の廃藩で父が職を失ったため家族で大阪北船場に転居した。はじめ上田耕冲に師事し、明治44年の耕冲没後は鈴木松年に師事した。明治23年第3回内国勧業博覧会出品。明治26年日本青年絵画協会第2回青年絵画共進会で3等褒状。明治28年第4回内国勧業博覧会で褒状。明治29年日本絵画協会(日本青年絵画協会が改組)第1回絵画共進会出品。明治36年第5回内国勧業博覧会の際に明治天皇、閑院宮殿下の前で揮毫。大正12年大阪市美術協会の創立委員。昭和15年大阪美術倶楽部で古稀記念展を開催した。桂花社、桂庭社などの画塾を主宰し多くの門下生を育てた。終生船場を離れることはなく「船場の絵描き」と呼ばれ、晩年は淡路町で暮らした。昭和17年、73歳で死去した。
大阪(91)-画人伝・INDEX
文献:庭山耕園 : なにわの絵描き、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、日本美術院百年史1巻上、日本の花鳥画、大阪の日本画、上島鳳山と大阪の画家たち、大阪ゆかりの日本画家、大坂画壇の絵画