画人伝・大阪 日本画家 風俗図・日常風景

軽妙洒脱な「浪速風俗画」を確立した菅楯彦

菅楯彦「淡路人形浄るり」倉吉博物館蔵

菅楯彦「淡路人形浄るり」倉吉博物館蔵

菅楯彦(1878-1963)は、日本画家・菅盛南の子として現在の鳥取県に生まれ、幼くして一家で大阪に移り住んだ。大阪移住後ほどなくして襖絵の絵師をしていた父が病に伏せたため、楯彦は11歳にして絵師として一家を支えていくことになった。

以後、特定の師につくことなく襖絵や幻燈絵の彩色を手伝いながら、四条派、狩野派、土佐派、浮世絵などの模写により独学で画法を学び、ほかにも国学、有識故事、漢学、書法、舞楽なども学び、独自の絵画世界を構築していった。

大正の終わり頃からは、近代化の影響で消えつつある大阪の風俗を惜しみ、古き良き時代の大阪庶民の生活を軽妙洒脱に表現した「浪速風俗画」を確立した。また、風俗や芸能、祭礼など大阪の文化を描き残すことも積極的に行ない、寺社での祭礼の復興などにも力を注いだ。

大阪の伝統的な風俗や風景を題材にした画に自賛を入れるスタイルは、大和絵や四条派の写生体に南画的要素を融合させた瀟洒なもので、大阪人独特の洗練された感性に響くものとして広く愛され、近代大阪において最も大阪的特性を示す画家とされている。

門人としては、楯彦の作風を受け継ぐ一方で、豊かな色彩感覚により同時代の風俗も積極的に描いた生田花朝女をはじめ、妻の富田屋八千代、異父姉の子にあたる菅真人、山内直枝、福田芳穂、内田稲葉らがいる。

菅楯彦(1878-1963)すが・たてひこ
浪速の町絵師・菅楯彦

山内直枝(不明-不明)やまうち・なおえ
越前勝山藩藩主の小笠原家に仕えた藩士・山内村衛門(山内家6代)の娘。山内家初代は元禄4年小笠原家の美濃国高須藩から越前勝山藩への転封に同行したと伝わっている。直枝は、菅楯彦に師事し、画家として活動するとともに、尼僧だったとされる。大正5年には楯彦門下の生田花朝女、山内直枝、福田芳穂の宮島への写生研究旅行が報じられている。現存する作品は少ないが、楯彦の軽妙洒脱な作品を師承していることが残された作品からうかがえる。

福田芳穂(1893-1973)ふくだ・よしほ
明治26年生まれ。幼いころから菅楯彦に画を学び、和歌を藤村叡運に、詩文を近藤尺天に学んだ。のちに楯彦の勧めで矢野橋村と福岡青嵐にも師事した。昭和7年法然上人生誕800年の記念奉讃会で描いた「勢至丸の童形」が大阪浄土宗教務所に奉安された。矢野橋村門下による乾坤社展に出品するとともに、大阪女流画家展に同人として参加し、戦後も大阪女人社展に出品した。昭和26年大阪美術協会の設立に創立委員として参加。昭和10年頃中河内郡高安村に居住。昭和31年から大美展に出品を重ねた。昭和48年、80歳で死去した。

内田稲葉(1901-1983)うちだ・とうよう
明治34年岡山県真庭市生まれ。大正6年から津山の画家・和田凌雨に師事し、大正9年大阪に出て凌雨の紹介で菅楯彦に入門し内弟子となった。昭和6年土田麦僊に入門することが決まったが楯彦に話すことができずに取りやめとなった。昭和18年久保田耕民の勧めで大阪絵画春秋会を設立。昭和23年再興第33回院展に初入選。昭和42年大阪高島屋で個展を開催。昭和54年大阪市民文化功労賞を受賞した。昭和58年、83歳で死去した。

大阪(112)-画人伝・INDEX

文献:菅楯彦展 : 浪速の粋雅人のこころ、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、大阪の日本画、上島鳳山と大阪の画家たち、大阪ゆかりの日本画家、大坂画壇の絵画、女性画家たちの大阪




-画人伝・大阪, 日本画家, 風俗図・日常風景

© 2025 UAG美術家研究所 Powered by AFFINGER5

Amazon プライム対象