画人伝・兵庫 日本画家

画壇を離れ六甲の自然の中で画業に専念した福田眉仙

福田眉仙「月下征旅図」

福田眉仙「月下征旅図」

福田眉仙(1875-1963)は、兵庫県赤穂郡矢野村(現在の相生市)に生まれた。幼いころから画を好み、はじめ宮田其溪に画の手ほどきを受け、その後京都の久保田米僊に学び、19歳の時に米僊とともに東京に移り、国民新聞社に入社して徳富蘇峰に敬事した。

その後、東京美術学校教授だった橋本雅邦の門下となり、同校でも学んだと思われるが、美校騒動により同校校長を退職した岡倉天心のあとを追って同校を去り、明治31年に天心らによって設立された日本美術院に研究会員として参加した。

明治42年には天心の勧めもあって中国に渡り、約3年間滞在し、明清画や南宗画の研究につとめ、とりわけ清代の画人・石濤の影響を強く受けた。帰国後も中国を題材とした作品を次々と制作し、代表作として知られる「支那三十図巻」などを発表した。

大正2年に天心が没し、翌年横山大観らによって日本美術院が再興され、眉仙も参加したが、画家の精神性を重要視する大観ら日本美術院の画家たちに対し、写生こそが最も重要と考えていた眉仙は、次第に大観らと距離を置くようになる。

大正9年には芦屋と西宮の境辺りに居を定め、中央画壇との交わりを絶ち、六甲の自然の中で画業に専念した。また、昭和5年の兵庫県美術家連盟設立に中心的役割を果たすなど地域の美術振興にも貢献した。

福田眉仙(1875-1963)ふくだ・びせん
明治8年兵庫県赤穂郡矢野村(現在の相生市)生まれ。本名は周太郎。久保田米僊、橋本雅邦に師事した。明治31年日本美術院の創設に参加。日本絵画協会展や内国勧業博覧会などで受賞を重ね、国画玉成会会員、美術研精会の評議員などをつとめた。明治42年岡倉天心の勧めもあり中国に渡り、約3年間滞在し明清画や南宗画の研究につとめた。帰国後もこのときに描き溜めたスケッチを元に作品を次々と制作し、大正5年に『支那大観』2冊を刊行し、大正8年代表作「支那三十図巻」を完成させた。大正9年東京画壇から離れ芦屋と西宮の境に居を定め、以後兵庫画壇の元老的存在となった。昭和5年兵庫県美術家連盟の設立に参加。昭和22年第1回兵庫県文化賞を受賞。昭和38年、88歳で死去した。

兵庫(22)-画人伝・INDEX

文献:兵庫ゆかりの日本画家たち展、兵庫の美術家県内日本画壇回顧展、芦屋の美術、兵庫の絵画100年展




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