森周峰(1738-1823)は、吉村周山の門人で、禁裏絵師にも名を連ね、同門の吉村周圭らと同時期に活躍した。絵師と伝わっている森如閑斎の二男で、兄に森陽信が、弟に森狙仙がいる。はじめ父に画の手ほどきを受け、その後月岡雪鼎にもついたと思われる。
いつの頃か法橋・法眼にも叙され、寛政2年の禁裏御所造営でも画筆をふるい、享和2年刊行された『浪華なまり』には流行画人として登場している。木村蒹葭堂らと交流を持ち、文化4年の『画人組』では差添人の役を果たしており、大坂画壇の重鎮として活動していたことが伺える。
作風は狩野派風の描法を基調としながらも、狙仙風の写実的な動物画も残し、迫真的な牛図も描いていたという。
森周峰(1738-1823)もり・しゅうほう
元文3年生まれ。大坂の人。森如閑斎の二男。兄は森陽信、弟は森狙仙。名は貴信、字は文泰、林蔵とも称した。号は周峰、鐘秀斎。吉村周山に画を学んだ。禁裏御所造営に際して願書を出して仙洞御所の画事を命じられた。安永6年刊行の仙果亭嘉栗『狂歌奈良飛乃岡』などの版本の挿絵を描いた。天明2年高砂神社「関羽図絵馬」、寛政2年福厳寺仏殿天井画「龍図」(戦災焼失)などを手掛けた。文政6年、86歳で死去した。
森陽信(1736-1808or1822)もり・ようしん
元文元年生まれ。大坂の人。森如閑斎の長男。名は陽信、通称は藤蔵。号は永春斎。生没年に関しては諸説ある。蝶楊堂(岡本)幽谷、狩野栄春斎(櫛橋正盈)に学んだと思われる。町狩野の画風による高砂や鶴などの吉祥画題の作品が複数みられる。文化3年または文政3年死去した。
森雄仙(1780-1851)もり・ゆうせん
安永9年生まれ。大坂の人。実父は森狙仙、のちに森周峰の養子となった。名は君琦、字は季玉。号は雄仙。文化年間以降、周峰、狙仙、徹山らとともに複数の書画展観への出品が確認できる。作品は狙仙風の猿図、円山四条派風の風俗画や花鳥画が知られる。嘉永4年、71歳で死去した。
森祖雪(不明-不明)もり・そせつ
名は貴徳または貴峯、俗称は量蔵。号は祖雪。森周峰の実子で、狙仙に画を学んだと思われる。
大阪(06)-画人伝・INDEX
文献:絵草紙に見る近世大坂の画家、近世大阪画壇、浪華人物誌2、サロン!雅と俗:京の大家と知られざる大坂画壇、近世の大坂画壇、大坂画壇の絵画