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芦屋に転居し44歳で没するまでの5年間で数々の裸婦像の名作を生み出した小出楢重

小出楢重「横たわる裸身」

小出楢重「横たわる裸身」

小出楢重(1887-1931)は、大阪市に生まれ、中学生のころから四条派の渡辺祥益に日本画を学んだ。卒業後は上京して東京美術学校西洋画科を受験したが、木炭素描の準備不足のため不合格となり、定員に余裕のあった日本画科への入学を許された。

しかし、洋画志望を捨てきれず、白馬会原町洋画研究所に通って学び、西洋画科に転科した。卒業後は大阪に帰り、しばらく文展に落選を続けたが、院展洋画部、二科展に出品し、大正8年、第6回二科展で樗牛賞を受賞して注目された。

大正10年渡仏するが約半年で帰国。これを境に以前の重厚な写実から流麗で軽快な画風へと一変した。大正12年二科会会員に推挙され、翌年鍋井克之、黒田重太郎、国枝金三らと信濃橋洋画研究所を創立して後進の指導にあり、関西における洋画研究の中核的存在として多くの洋画家を育てた。

大正15年芦屋に転居し、翌年アトリエを建て、昭和6年に44歳で没するまでの5年間で裸婦像を中心とした数々の名作を生み出した。小出宅には信濃橋洋画研究所に学ぶ若い画家たちが訪れ、松井正(1906-1993)は書生として住み込み、仲田好江(1902-1995)は家が近かったこともあり毎日のように小出家を訪れ家族同様に過ごしたという。

小出楢重(1887-1931)こいで・ならしげ
明治20年大阪市生まれ。大阪府立市岡中学校在学中から渡辺祥益に日本画を学び、明治40年同校を卒業して東京美術学校日本画科に進学したが、明治42年西洋画科に転科を決意して白馬会洋画研究所で長原孝太郎に師事し、同年西洋画科1年に転科し、大正3年同校を卒業した。大正8年第6回二科展で樗牛賞を受賞し、翌年二科賞を受賞した。大正12二科会会員に推挙。大正13年信濃橋洋画研究所を開設。大正15年芦屋に転居した。昭和6年、44歳で死去した。

松井正(1906-1993)まつい・しょう
明治39年広島県生まれ。本名は正一。大正13年大阪に出て小出楢重に師事し、同年小出らによって開設された信濃橋洋画研究所に学んだ。大正15年に小出が芦屋に移ってからは書生として同家に住み込み、小出の身のまわりの世話をしながら絵を学んだ。昭和2年第14回二科展に初入選し、以後同展に出品した。昭和8年第20回二科展で特待となり、昭和13年には佐分賞を受賞し、昭和16年会員となった。戦後はヨーロッパ、北中南米などを旅した。昭和39年から63年まで大阪芸術大学教授をつとめた。平成5年、86歳で死去した。

仲田好江(1902-1995)なかた・よしえ
明治35年大阪市生まれ。旧姓は三島菊代。幼年時代に芦屋に転居した。大正13年開設されたばかりの信濃橋洋画研究所に通い、小出楢重らの指導を受けた。大正15年に芦屋に転居してきた小出の自宅を訪ねるようになった。翌年仲田定之助と結婚、上京して小出の紹介で安井曾太郎に師事した。昭和3年第15回二科展に初入選。昭和12年一水会が創設されると第1回展から出品し、昭和21年会員となった。翌年三岸節子らと女流画家協会を創立した。昭和26年好江と改名。平成7年、93歳で死去した。

木村敏(1902-1999)きむら・びん
明治35年兵庫県朝来郡生まれ。中学卒業後に病気になり、芦屋浜で療養生活を送った。この時に写生に来ていた画学生をみて画家に憧れ、のちに信濃橋洋画研究所に通い小出楢重に師事した。やがて彫刻を志すようになり、小出の助言で上京し小倉右一郎に師事し、滝野川彫塑研究所に学んだ。昭和6年二科展に初入選。戦後すぐ芦屋に戻り、昭和23年芦屋市美術協会の創立に参加した。昭和27年二科展に復帰し、昭和36年会員となった。平成11年、97歳で死去した。

沢野岩太郎(1903-1984)さわの・いわたろう
明治36年兵庫県宝塚市生まれ。はじめ小出楢重に師事し、長谷川三郎、中村徳次郎、山内国夫とともに「白象会」を結成し洋画修得に励んだ。小出没後は林重義に師事し、昭和8年から独立展に、昭和14年から国画会展に出品した。昭和17年国画会展で奨励賞及びF夫人賞を受賞。昭和19年会員となった。昭和59年、81歳で死去した。

山崎隆夫(1905-1991)やまざき・たかお
明治38年大阪市生まれ。神戸高等商業学校(現在の神戸大学)在学中から小出楢重に師事し、小出没後は林重義に師事し月曜会に参加した。昭和7年から12年まで独立展に出品し、昭和13年から国画会展に出品した。昭和14年国画奨学賞を受賞し、のちに会員となった。戦前は兵庫県美術連盟の会員として戦後は神戸洋画会の会員として兵庫県内洋画壇でも活躍した。芦屋では小出楢重が生前使っていたアトリエに住んでいたが、昭和37年神奈川県に移った。平成3年、85歳で死去した。

藤井二郎(1906-1992) ふじい・じろう
明治39年大阪市生まれ。大正13年上京して川端画学校に学んだが、信濃橋洋画研究所の開設に伴い大阪に帰って入所し、小出楢重に師事した。大正14年第13回二科展に初入選。翌年より昭和7年まで滞欧し帰国。同年の第19回二科展に滞欧作が特別陳列された。同年新美術家協会に参加。昭和16年二科会会員となった。昭和18年から22年まで芦屋に住み、昭和21年山本敬輔とともに芦屋美術文化研究所を開設。昭和23年芦屋市美術協会の創立に参加した。平成4年、86歳で死去した。

兵庫(50)-画人伝・INDEX

文献:兵庫の美術家県内洋画壇回顧展、芦屋の美術、小出楢重画集




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