UAG美術家研究所

江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま東北地方を探索中。

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浮世絵師から津山藩御用絵師になった鍬形蕙斎

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鍬形蕙斎「江戸名所の絵」

江戸の畳職人の家に生まれた鍬形蕙斎(1764-1824)は、浮世絵北尾派の祖・北尾重政の門に入り、17歳の時から北尾政美の名で浮世絵師として活躍していたが、31歳の時に美作国津山藩松平家に召し抱えられ津山藩の御用絵師となった。近年では、江戸を一望した作品「江戸一目図屏風」が、東京スカイツリーから見た景色に似ていることから、レプリカが第一展望台に展示され、一躍その名を知られるようになった。蕙斎が、津山で暮らしたのは47歳の時の一年足らずで、ほとんどを江戸で過ごしたが、鍬形没後は子の赤子(紹意)、養子の勝永(恵林)が家を継いでおり、鍬形家が津山に残した功績は大きい。

嘉永6年、ペリー率いる黒船が神奈川に現れた際、津山藩は幕府の命令により、3人の艦隊視察者を神奈川に派遣した。その3人は、洋学者の宇田川興斎、箕作秋坪に加え、鍬形の子・鍬形赤子だった。赤子はペリー像をはじめ外国人の肖像や蒸気船、兵器などを描き、それらは貴重な歴史資料として残っている。

鍬形蕙斎(1764-1824)
明和元年江戸生まれ。父は駿河国の出身で江戸に出て畳職人をしていた。俗称は三二郎、「畳屋の三公」と呼ばれた。幼いころから画を好み、13歳のころに浮世絵師の北尾重政に入門し、17歳頃から「北尾政美」と名乗るようになった。寛政6年、31歳のときに美作国津山藩松平家の御用絵師として召し抱えられ、「蕙斎」と改号した。寛政9年、六代藩主・松平康乂の命を受け、奥絵師の狩野養川院惟信に入門、召眞と名乗り、のちに「鍬形」と改姓した。文化7年5月から翌8年3月まで津山に住んだ。文政7年、61歳で死去した。
参考:UAG美人画研究室(鍬形蕙斎)

鍬形恵林(1826-1909)
文政10年生まれ。名は勝永。狩野雅信に師事した。狩野芳崖、橋本雅邦の兄弟子にあたる。鍬形蕙斎の養子となり、松平確堂に仕えて津山藩の絵師となった。廃藩の後に日本美術協会などに出品し銅牌などを受けた。明治42年、83歳で死去した。

岡山(9)-ネット検索で出てこない画家

文献:美作の美術展作州画人伝

鍬形蕙斎画 近世職人尽絵詞: 江戸の職人と風俗を読み解く
勉誠出版







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