画人伝・沖縄 花鳥画

琉球文化の黄金期を代表する宮廷画家・座間味庸昌(殷元良)

座間味庸昌(殷元良)「雪中雉子之図」沖縄県立博物館・美術館蔵

座間味庸昌(殷元良)は、琉球絵画を代表する宮廷画家の一人である。庸昌の時代は、琉球文化の黄金期といわれ、現在に伝わる沖縄の伝統文化のほとんどがこの時期に培われた。劇作家の玉城朝薫、文学者の平敷屋朝敏、陶芸家の仲村渠致元、音楽家の屋嘉比朝寄らが活躍し、画家では庸昌に学んだ屋慶名政賀、さらに政賀に学んだ小橋川朝安が出ている。

庸昌は、幼いころからよく画を描き、神童とうたわれた。12歳の時に尚敬王に見出されて城中に召され、宮廷画家として王府内で山口宗季(呉師虔)に絵画の技法を学んだ。35歳で進貢のため北京大筆者となり中国に渡り、中国滞在中は大陸の川、風物、人事などを視察し、画家としての見聞もひろめたと思われる。作品は大倉集古館所蔵の大和絵の流れを汲む「鶉図」、沖縄県立博物館・美術館所蔵の院体画の流れを汲む「雪中雉子の図」などがある。

座間味庸昌(1718-1767)
1718(享保3)年首里生まれ。唐名は殷元良。童名は真牛。仲松里之子親雲上庸象の二男。幼いころから画をよくし、神童とうたわれ、その名は巷間に聞こえるようになり、1729年、12歳の時に尚敬王の命によって首里城に召し入れられ、山口宗季(呉師虔)のもとで画法を学ぶことになった。また、この時に国師であり三司官でもあった具志堅親方文若から「朝廷之一器」であるとして「延器」の字を賜り、尚敬王からは「中山首里」「殷元良印」「延器氏」の印三面を賜った。20歳の時に尚氏松村親雲上朝英の娘と結婚し、29歳で黄冠に叙せられ、34歳で銭御蔵大屋子になった。35歳の時、進貢のため北京大筆者となり中国に渡り、2年後に帰国すると、先生・尚敬の御後絵を制作した。1759年には座間味間切総地頭となり座間味親雲上と称した。1767年、50歳で死去した。

沖縄(4)-画人伝・INDEX

文献:沖縄美術全集4、琉球絵画展、すぐわかる沖縄の美術沖縄の芸術家




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