画人伝・茨城 南蘋派 山水・真景 花鳥画 中国故事

近世水戸の南蘋派・宮部雲錦と栗田長珉

宮部雲錦 左:「山水図」、右:「江村帰漁図」

宝暦年間(1751-1764)になると、長崎に来航した沈南蘋が伝えた新しい写実主義が全国的に影響を及ぼし、江戸では宋紫石をはじめとする多くの南蘋派の画家たちが台頭し、当時全盛を誇っていた狩野派に対し、新しい思潮として多くの画家たちに影響を与えた。

水戸においても、江戸より少し遅れて、宮部雲錦(1746-1824)あたりから、新しい動きが始まったと考えられている。雲錦は桜井雪館に学んだが、雪館の絵画様式をそのまま踏襲するのではなく、新たに明清画も習得し、南蘋の流れを汲む花鳥画を描いたという。残された作品が少なく、そこから南蘋派の影響をみることは難しいが、伝統的な狩野派に対する江戸の南蘋派たちと同じ役割を、水戸において果たしたと考えられている。

参考:自らを雪舟十二世と称した桜井雪館

残された作品から部分的ではあるが南蘋派の影響がみられる画家としては栗田長珉(1766-1822)がいる。長珉の画の師は明らかではないが、南蘋の画法を学んだと思われ、密画の花鳥、人物をよくした。水戸における南蘋派の先駆けといえる。

宮部雲錦(1749-1815)みやべ・うんきん
寛延2年磯浜生まれ。水戸藩士。立原杏所の師とされる。名は翼、字は子恒、桃源と称した。桜井雪館に画を学び、のちに明清画も習得し、花鳥画を得意とした。南蘋の流れを汲み、水戸の画壇を狩野派中心から変えたとされる。残っている作品は少ない。文化12年、67歳で死去した。

栗田長珉 左:「人物図」、右:「群鶴図」

栗田長珉(1752-1808)くりた・ちょうみん
宝暦2年生まれ。名は吉、通所は八郎兵衛。別号に蕉鹿(一説には丘鹿)がある。水戸藩士で御前小姓や通事などを歴任した。江戸で流行した南蘋の画法を学んで、密画の花鳥、人物をよくした。文化5年、57歳で死去した。

茨城(9)-画人伝・INDEX

文献:茨城の画人、茨城県立歴史館報(12)




You may also like

おすすめ記事

1

長谷川等伯 国宝「松林図屏風」東京国立博物館蔵 長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子と ...

2

田中一村「初夏の海に赤翡翠」(アカショウビン)(部分) 昭和59年(1984)、田中一村(1908-1977)が奄美大島で没して7年後、NHK教育テレビ「日曜美術館」で「黒潮の画譜~異端の画家・田中一 ...

3

横山大観「秩父霊峰春暁」宮内庁三の丸尚蔵館蔵 横山大観(1868-1958)は、明治元年水戸藩士の子として現在の茨城県水戸市に生まれた。10歳の時に一家で上京し、湯島小学校に転入、つづいて東京府小学校 ...

4

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵 北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮 ...

5

雪舟「恵可断臂図」(重文) 岡山の画家として最初に名前が出るのは、室町水墨画壇の最高峰に位置する雪舟等楊(1420-1506)である。狩野永納によって編纂された『本朝画史』によると、雪舟の生誕地は備中 ...

-画人伝・茨城, 南蘋派, 山水・真景, 花鳥画, 中国故事

© 2024 UAG美術家研究所 Powered by AFFINGER5