神奈川県横浜市に生まれた村山槐多(1896-1919)は、教師だった父親の赴任に伴って小、中学時代を京都で送った。京都府立第一中学校(現在の洛北高校)在学中から絵画、文学に傾注し、級友らと「強盗」「銅貨」などの回覧雑誌を発刊して挿絵や詩などを発表、従兄の山本鼎から与えられた油彩道具で油絵を描きはじめた。
明治45年、16歳の時に渡仏中の山本鼎のもとに、デッサン、水彩画、版画、ポスターなどを送ったところ、その早熟な画才に驚嘆した鼎は、同時期に渡仏中だった画友・小杉未醒(放庵)に槐多の指導を託した。
大正3年、18歳の時に小杉未醒の門下生となるべく上京、その途中に、以前も訪れたことがある山本鼎の父親が医院を開業している信州の神川村大屋を再訪した。その後もしばしば大屋を訪れており、神川、上田周辺の自然を題材にした木炭画の「信州風景」「千曲川風景」や、水彩の連作「朱の風景」などを描いている。
東京に着いた槐多は、小杉未醒の田端の家に下宿し、未醒が同人をしていた再興日本美術院の研究会員となり、高村光太郎、柳瀬正夢らと親交を深めた。同年の第1回二科展に「庭園の少女」などを出品して初入選。その翌年には第2回日本美術院展洋画部に「カンナと少女」を出品して院賞を受賞した。
大正5年、未醒の家を出て、根津裏通りの二階屋六畳間に下宿。この頃、モデルのお玉(珠)さんに恋をし、彼女を追って日本堤に下宿を移し、彼女にあてた詩「どうぞ裸になって下さい」や「空を飛ぶ吾」を書くが、やがて失恋して下宿を引き払って飛騨山中を放浪、天竜峡に向かったりもした。
帰京後は、画友・山崎省三の旅行先の大島に行き「大島の水汲み女」「自画像」などを描き、大島から帰ると山崎とともに根津八重垣町の六畳間に下宿。午前中は日本美術院の研究所に通い、午後は両国の焼絵工場でアルバイトをする生活を送っていたが、やがて下宿を出て田端の日本画家Uのところに居候するようになった。
大正6年、第4回日本美術院展洋画部に「乞食と女」を出品、院賞を受賞し、日本美術院院友に推挙された。
大正7年、第4回日本美術院試作展に「樹木」「自画像」などを出品して奨励賞を受賞するが、男の裸体画が警察から撤去命令を受ける。この頃から酒びたりの生活を送るようになり、人力車に無賃乗車して逃亡の末に警察に始末書をとられたり、通行中の女性に不意に接吻したりする奇行が目立つようになった。
同年4月、山崎と共同生活をしていた根津六角堂で突然喀血し、結核性肺炎と診断される。そして、第5回日本美術院展に出品するが落選。死の不安とたたかいながら房州各地を転々とするが、鴨川町で瀕死の状態となり入院。その年の暮に、療養のため代々木の「鐘下山房」と名づけた一軒家に移り住んだ。
大正8年、第5回日本美術院試作展に「松と榎」など13点を出品して乙賞を受賞するが、この頃になると、50センチ以上もあるパイプを持ち、トルコ帽にドクロの紋章を付けたものをかぶって街に出没するようになる。
同年2月14日、流行性感冒にかかり発熱して寝込んでいたが、同月18日、雪まじりの激しい雨が降るなか発作的に戸外に飛び出し、草むらに倒れているところを山崎に発見され自宅に戻ったが、2日後に死亡した。22歳と5カ月の短い生涯だった。
村山槐多(1896-1919)むらやま・かいた
明治29年神奈川県横浜市神奈川町(現在の神奈川区)生まれ。1歳の時に父親の転勤に伴い高知県に転居、4歳の時に京都市に転居した。9歳頃から絵を描くようになった。明治40年京都府師範学校付属小学校尋常科を卒業。大正3年京都府立第一中学校を卒業して上京し小杉未醒に師事した。同年第1回二科展初入選。大正4年第1回日本美術院試作展出品。同年第2回日本美術院展洋画部で院賞受賞。大正6年第4回日本美術院展洋画部で院賞受賞、院友に推挙された。翌年肺結核を発症。大正8年、22歳で死去した。
長野(55)-画人伝・INDEX
文献:長野県美術全集 第6巻