高鍋藩十代藩主・秋月種殷の弟でのちに養子となった秋月種樹は、幕末に外様大名としては異例の幕府若年寄となり、維新後は元老院議官や貴族院議員などをつとめた。その一方で、詩文、書画にすぐれ、風格ある書画を宮崎県内に多く残している。同好のものとは分け隔てなく交わったといい、延岡の鈴木月谷、四屋延陵、日向の片岡米山、河野立巌らと親交があった。徳川家茂の侍読をつとめた際には、登城の刀持ちなどの所用をつとめる係として安田守世が種樹に従っている。
秋月種樹(1833-1904)
天保4年江戸生まれ。高鍋藩十代藩主・秋月種殷の弟、のちに養子になった。将軍徳川家茂や明治天皇の侍読、大学大監などをつとめた。号に松溪、縮堂、楽山、氷壺、三十六湾外史、雲烟外史、千歳亭、千歳叟、古香などがある。幼くして塩谷宕陰、安井息軒などに学び、小笠原明山、本多静山とあわせて三公子と呼ばれた。幕末に外様大名としては異例の若年寄になった。明治維新のはじめ、公議所の議長となり代議政体の基礎を作った。さらに明治2年、大学大監として明治教育の要務に当たった。明治5年欧米を視察し帰国後元老院に入った。明治7年に種殷死去により家督を相続。明治10年西南戦争が起こると高鍋の藩士の自重のため奔走した。明治14年高鍋の旧城内に千歳亭を設け東京から移り住み、それ以来、各地に漫遊して風流を楽しんだ。県内には書画幅、石碑文など多数残っている。その後元老院議官や貴族院議員になり、高鍋と東京を往復して国政に参加した。明治25年から明治28年まで一時東京に居住し、明治32年保養のため神奈川県片瀬に移り、明治37年、72歳で死去した。
宮崎(15)-画人伝・INDEX
文献:郷土の先覚者展、郷土の絵師と日本画家展