江戸後期から南画が盛んに描かれるようになった延岡では、明治期になると小泉二山が出て人気を博し、近代延岡における南画家の第一人者と称された。二山は延岡で鈴木月谷に学んだのち、江戸に出て川上冬崖、田崎草雲に学び、豊後の淵野桂僊にも学んでいる。画風は「山水は渡辺崋山、花卉は椿椿山、鳥は岡本秋暉の長所をそれぞれ消化してよくその長所を生かしている」と評され、延岡の好事家に多く所蔵されている。
また、同時期の宮崎の南画家として、延岡で鈴木月谷に学んでいた際の同門に、河野立巌、佐野徳輝、根井南華がいる。
小泉二山(1858-1936)
安政5年延岡恒富生まれ。父は延岡藩士。旧姓は遠山、名は国太郎、のちに正休と改めた。別号に霞堂がある。明治12年に小泉家の養子となった。小泉家も代々内藤家の家臣で、奥州磐城国平より内藤氏に随行して延岡に来たとされ、養父正直は御金御奉行御雇をつとめていた。明治4年から8年間鈴木月谷に学び、明治11年に上京して川上冬崖に師事。さらに田崎草雲、淵野桂僊にも学んだ。明治34年に延岡亮天社の毛筆図画教師として嘱託となり、明治36年の閉校までつとめた。明治35年から延岡女学校図画教師嘱託となり、明治39年からは延岡女子職業学校の指導も兼任した。昭和11年、76歳で死去した。
河野立巌(1855-1920)
安政2年日向市美々津町生まれ。家は船や多くの田地を持つ豪商。幼名は稜一、名は通紹、のちに介寿。初号は月竹。少年のころに鈴木月谷に師事し、明治18年に上京して画を学んだとされるが、師は不明。明治21年に帰郷して家業を継いだが、明治38年には財産を処分して広島に移住。大正8年に現在の宮崎市に移った。大正9年、65歳で死去した。
佐野徳輝(1858-不明)
安政5年延岡市岡富生まれ。竹谷と号した。明治7年に鈴木月谷に師事した。第1回内国絵画共進会に南北合派として「山水」「菊」を出品、第2回展に南宗派として「竹図」「山水図」を出品した。
宮崎(12)-画人伝・INDEX
文献:延岡先賢伝、延岡先賢遺作集、宮崎県地方史研究紀要第12号「宮崎の近代美術」、郷土の絵師と日本画家展