画人伝・新潟 南画・文人画家 歴史画

多くの門人を育て三条画人の名を高めた行田雲濤

行田雲濤「神功皇后之図」

行田雲濤「神功皇后之図」

行田雲濤(1798-1853)は、蒲原郡一ノ木戸村(現在の三条市神明町)の神明宮の宮司の子として生まれ、40歳前後に父の跡を継いで神明宮の神官となった。早くに画技に目覚め、京都に上って山本梅逸に師事したとされる。

帰郷後は、後進の育成にもつとめ、門下から実弟の林泰岳をはじめ、帰山雲崖、松川藤陰、森山信谷ら多くの人材を輩出し、また、その子弟らも画に親しみ、三条画人の名を高めていった。

また、上京して画を学び、のちに帰郷して活動した三条画人としては、藤沢越堂、田巻雲峰、田中永雲、中村芳渓らがいる。

行田雲濤(1798-1853)なめた・うんとう
寛政10年蒲原郡一ノ木戸村(現在の三条市)生まれ。神明宮宮司・行田正知の子。名は大介、のちに正煕。字は一合庵。別号に楽庵がある。父の跡を継いで神官となり、名を掃部と改めた。画は京都で山本梅逸に学び、花鳥画を得意とした。叔父は三条画人のなかでもっとも古いとされる行田八海。三条以外の門人としては照田穿石、多賀二峰、片桐遜堂らがいる。嘉永6年、56歳で死去した。

林泰岳(1800-1883)はやし・たいがく
寛政12年蒲原郡一ノ木戸村(現在の三条市)生まれ。神明宮宮司・行田正知の子。行田雲濤の弟。別号に大岳、伝斎がある。兄に画を学び、村松藩士で絵師の林広助の養子となった。茶道に通じていたので、御茶頭をつとめ、藩主・堀直央にも画を教えたという。明治16年、84歳で死去した。

帰山雲崖(1830-1903)かえりやま・うんがい
文政13年蒲原郡三条町(現在の三条市)生まれ。醸造業・赤壁屋五郎左衛門の長男。名は良徹、通称は徳三郎。はじめ行田雲濤に学び、19歳の時に京都に上り山本梅逸に師事した。また、池内随所に経義・画論を学んだ。一時帰郷したが、さらに大坂に行き7年間画を学んだ。明治36年、74歳で死去した。

帰山阡蒼(1899-1978)かえりやま・せんそう
明治32年蒲原郡三条町(現在の三条市)生まれ。帰山雲崖の孫。名は享次郎。上京して日本美術学校に学び、小林古径、橋本静水に師事した。大正11年第9回院展に初入選。以後8回入選し、日本美術院院友になった。昭和48年創作画人協会の設立に参加。昭和53年、79歳で死去した。

松川藤陰(1843-1921)まつかわ・とういん
天保14年蒲原郡井栗村(現在の三条市)生まれ。大庄屋・松川辨之助の末男。名は厚、幼名は信七郎、字は帰徳、通称は述七郎。7歳で行田雲濤に師事し、雲濤没後は、兄の桃所が師事していた椿椿山の作品と粉本によって画の勉強を続けたという。17歳の時に兄が没したため、松川家を継いだ。明治15年の第1回絵画共進会では、新潟県で唯一の入選者となった。大正9年、78歳で死去した。

松川藤華(1837-1862)まつかわ・とうか
天保8年蒲原郡井栗村(現在の三条市)生まれ。大庄屋・松川辨之助の二女。名はすぐ子。画を誰に師事したのかは不明だが、春木南湖に学び、椿椿山の粉本を所持していた兄・桃所ではないかと考えられている。文久2年、26歳で死去した。

松川藤華(1879-1954)まつかわ・とうか
明治12年蒲原郡井栗村(現在の三条市)生まれ。松川藤陰の八男。名は第八郎。早世した伯母の号を継いだ。東京美術学校建築科を卒業後、十日町専修学校・高田中学校で教師としてつとめた。父の作品を手本に描いた。昭和29年、75歳で死去した。

森山信谷(1838-1893)もりやま・しんこく
天保9年蒲原郡三条町(現在の三条市)生まれ。名は信谷、通称は武左衛門。幼いころから字を学び、書を書いたと伝えられ、14歳で江戸に出て椿椿山に師事したが、椿山の死去にともない帰郷したといわれるため、江戸滞在は1年前後と思われる。帰郷後は三条町日吉町に住んだ。花鳥画を得意とした。明治26年、56歳で死去した。

森山越山(1847-不明)もりやま・えつざん
弘化4年蒲原郡三条町(現在の三条市)生まれ。森山信谷の弟。花鳥、山水、人物画を得意とした。明治33年に新潟市に転居した。没年は不明。

藤沢越堂(1881-1946)ふじさわ・えつどう
明治14年南蒲原郡一ノ木戸村(現在の三条市)生まれ。名は清二郎。初号は北湖、別号に東堂がある。はじめ帰山雲崖に学び、のちに上京して松本楓湖、川合玉堂に師事したが、業半ばで帰郷した。昭和21年、66歳で死去した。

田巻雲峰(1890-1950)たまき・うんぽう
明治23年南蒲原郡一ノ木戸村(現在の三条市)生まれ。藤沢越堂の弟。名は由松。別号に清園がある。東京で画を学んだのち帰郷。山水、仏画を得意とした。大正6年に田巻家の養子になった。昭和25年、60歳で死去した。

田中永雲(1850-1934)たなか・えいうん
嘉永3年蒲原郡三条町(現在の三条市)生まれ。名は直好、のちに昌信。幼いときに父の雲渓立徳から画の手ほどきを受け、15歳で江戸に出て幕府の奥絵師・狩野永愿立信に学んだ。明治になって再び東京に行き修行を積んだのち狩野の姓を名乗ることを許され、明治7年に帰郷した。昭和9年、85歳で死去した。

中村芳渓(1870-1909)なかむら・ほうけい
明治3年蒲原郡三条町(現在の三条市)生まれ。上京して松本楓湖に師事し、人物画、仏画を得意とした。明治42年、40歳で死去した。

新潟(08)-画人伝・INDEX

文献:越佐の画人、三条市歴史民俗産業資料館所蔵作品集、越佐書画名鑑 第2版




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