度会郡に生まれた野村訥斎(1831-1864)は、地元の住職・慧剣に画を学んだ後、江戸に出て円山派の大西椿年に師事し、4年後に帰郷して地元で制作活動をした。その後、万延元年(1860)年には再び郷里を出て京都の円山應立のもとで学ぶが、4年後、34年の短い生涯を閉じた。
訥斎に関しての資料としては、1919年に刊行された『隠れたる画家 野村訥斎』(大野和平著)に詳しい。また、1990年には書籍と同名の展覧会「隠れたる画家 野村訥斎」が南島町体育館と三重県立美術館県民ギャラリーで開催されている。
展覧会図録によると、訥斎は34年の生涯の中で、画号を「月岑」「窓雪」「訥斎」と3度変えている。最初の号である「月岑」は、子供の頃に住職・慧剣に学んだ際に与えられたもので、画風は「いくらかたどたどしい筆致とともに、いかにも少年らしい初々しさを残している」と図録には記されている。
次の号「窓雪」は、『隠れたる画家 野村訥斎』の著者・大野和平氏の説では、訥斎が江戸を去って帰郷する際に師から記念に与えられたもので、この号をもつ作品は、郷里南島町を中心とする伊勢・志摩地方にひろく分布している。作風について図録では、「円山派風はもちろんのこと、琳派風あり、南画風あり、というように多彩を極めるし、技法は、彩色をつけたものから水墨まで、形式も、掛軸のような小画面で比較的描きやすいものから、幟や屏風、襖絵にまで及んでいる。屏風や襖のようなおおきな画面を破綻なく構成し、描ききるのは並大抵のことではない。広範な依頼者の要求に応えられる画家としての技術とレパートリーのひろさを訥斎は江戸で身につけて帰ったのである」としている。
最後の号となった「訥斎」は、再び郷里を出て京都で円山應立に師事していた時に、皇女和宮の徳川家降嫁に際してあつらえられた衣装の下絵(あるいは絵付け)の仕事が應立に命じられ、その代作を訥斎がつとめ、その功に報いるために應立から与えられたものであるという(大野和平氏の説)。訥斎時代の作品は少なく、今後の新たな作品の発見が待たれる。
野村訥斎(1831-1864)のむら・ぼくさい
天保2年度会郡小方竈生まれ。名は敏、通称は萬兵衛。幼くして画を好み、16歳の時に江戸に出て大西椿年について円山派の画を学んだ。4年の修行後、師の椿年は京都に行って学ぶように勧めたが、伊勢の両親が反対したため結婚して実家にいた。しかし、父親の死をきっかけに志を家人に告げ、京都に出て円山應立に師事することとなる。應立門下では並び立つものはいなかったという。元治元年、34歳で死去した。
三重(15)-画人伝・INDEX
文献:隠れたる画家 野村訥斎展