伊勢地方の円山・四条派の画人としては、松阪の曾和温山(1748-1797)が京都に出て四条派を学んでいる。また、歌人でもある垣本雪臣(1777-1839)は松村月渓に師事し、円山派の森徹山の養子である森一鳳(1798-1871)も養父に師事して円山派の絵を描いた。しかし、伊勢に円山・四条派が広まったのは丹波から来た岡村鳳水によるところが大きい。
丹波に生まれた岡村鳳水(1770-1845)は、京都に出て円山応挙の門に学び、応挙十哲の一人に数えられるようになった。伊勢を訪れたのは、伊勢出身の同門・笠井末清が帰郷したため、翌年、末清を訪ねて伊勢に来たもので、その時に上部茁斎、荘門為斎らが計って、鳳水を外宮前野問屋旅館に長く滞在させ、その間に画を学んだという。その後、縁あって鳳水は山田下中之郷(現宮町)の岡村家に入り、長く伊勢の地で活動し、上部茁斎、榎倉杉斎、荘門為斎ら多くの門人を育てた。
曾和温山(1748-1797)そわ・おんざん
寛延元年松阪愛宕町生まれ。通称は利右衛門。別号に枇杷、晩翠がある。幼い頃から神童と称され、事情があって僧となって養泉寺に養われ、のちに度会郡南島の鳥海寺に住んだ。四条派の画を学び、のちに諸種の画法を加味して一家をなした。彫刻も好み、書も巧みだった。寛政9年、50歳で死去した。
垣本雪臣(1777-1839)かきもと・ゆきおみ
安永7年生まれ。伊勢の人。本姓は菅原、通称貢。幼い頃、京都に出て龍草廬の門に入って漢学を学び、伴蒿蹊について和歌を研究した。また、有識故実を橘經亮に学び、のちに賀茂季鷹について謌を修め、出藍の誉高かった。すこぶる多能で、特に詩をよくした。画は松村月渓に学び一家をなした。性格は磊落不覇にして事を事とせず、家は極めて貧しかったが、酒を愛し毎夜酔っぱらっていた。天保10年、63歳で死去した。
森一鳳(1798-1871)もり・いっぽう
寛政10年一志郡久居町生まれ。名は敬之、俗称は文平。円山派の画人である森徹山の養子となり画法を養父に学び、骨法を得て「藻刈船」図をよく描いた。「藻を刈る」は「モウカル」に通じ、商家などが競って所蔵したという。明治4年死去。
荘門為斎(1778-1836)そうもん・いさい
安永4年生まれ。名は直在、字は其中、通称は此面。松本求馬光信の二男。山田浦口町の荘門直時の養子となった。岡村鳳水が山田に来た時に上部斎らと共にその門に入り画を学んだ。天保13年、66歳で死去した。
上部茁斎(1781-1862)うわべ・せっさい
天明元年山田常盤町生まれ。名は光済、字は子海、幼名は雅楽之助、のちに左衛門。上部光映の養子、伊勢神宮外宮権禰宜。岡村鳳水について画を学び、多くの門人を育てた。文久2年、82歳で死去した。
榎倉杉斎(1798-1867)えのくら さんさい
寛政10年山田上中之郷町生まれ。名は武賛、幼名は新、通称は靱負。岡村鳳水に師事し、花鳥人物を得意とした。豊前小倉の小笠原家の居城新築にあたって、9年の歳月をかけて障壁画を描いた。慶應3年7月、69歳で杉斎は死去するが、同年8月に小倉城は火災で焼け落ち、障壁画も焼失したという。
正住肅叟(1808-1868)しょうじゅう・しょうそう
文化5年山田下中之郷生まれ。字は千鐘、諱は弘美、幼名は正治郎、のちに将監、または隼人と改めた。父親は岡村鳳水。のちに正住平九郎の養子となった。幼い頃から父・鳳水に画を学び、自ら研究を積んで技術は大いに進歩した。茶道も好んだ。慶応4年、61歳で死去した。
水溜米室(1817-1882)みずたまり・べいしつ
文化14年山田一之木町生まれ。名は由義、幼名は吉太郎、通称は吉太夫。はじめ蓬壺と号し、のちに米室と改めた。山路五兵衛の子。水溜吉太夫の養子となった。はじめ岡村鳳水に師事し、のちに京都に出て鳳僊に学び、さらに横山清暉について研究を積んだ。また中瀬米牛について俳諧を学び、俳号を表裏といった。性格は淡泊で、芸術以外には欲望を示さなかったが、常に甘味を愛し、そのため慢性胃病に悩まされていたという。明治15年、66歳で死去した。
三重(13)-画人伝・INDEX
文献:三重県の画人伝、三重先賢傳・続三重先賢傳、伊勢市史第三巻近世編