
小林呉嶠「秋庭戯犬」
小林呉嶠(1871-1928)は、俳人・小林鹿造の子として京都に生まれ、四条派の今尾景年に師事した。少年の頃から地元の京都博覧会だけでなく、シカゴ万国博覧会などにも出品して受賞を重ね、景年画塾の筆頭となり、師の花鳥画を踏襲した。一方で美学、考古学、化学などにも関心を持ち、独学で学んだ。
明治29年、後素協会が結成され、委員長に今尾景年が就き、望月玉泉、原在泉、森川曽文、菊池芳文、谷口香嶠、竹内栖鳳、内海吉堂、山元春挙、都路華香、三宅呉暁、草野龍雲、梅村景山、森雄山らが委員となった。呉嶠も委員に挙げられたが、同年9月に結成された日本絵画協会の第1回共進会に出品したことを機に、岡倉天心の主唱する新日本画の試みに共鳴するようになり、師の許しを得て上京した。
東京の今川橋畔に居を定め、天心が創設した日本美術院にも一時身を置いたが、小坂象堂と親しくなってその影響を受け、徐々に日本美術院から離れ日本画会に出品するようになった。明治32象堂が没すると親交のあった岡倉秋水、丸山古香らとともに、洋画、彫塑も含んだ研究団体「日月会」を結成した。また、同年設立された美術同志会の専任委員となり、その翌年には大阪扶桑絵画協会の名誉会員ともなり、この年には同志と純正美術家研究会も創立した。
明治35年頃に愛知県で設立された工業美術協会の顧問及び図案審査員を委嘱されてからはたびたび名古屋を訪れ、東輪寺に龍を描くなど名古屋各地に作品を残している。明治36年には『呉嶠全集』を刊行したが、翌年の春頃から体調を崩し、三浦海岸で静養した。
明治39年、江戸っ子会(のちに明治絵画会と改称)の創設に参加し、明治40年に文展が開設されると旧派の画家たちとともに正派同志会を結成し幹事に就任した。その後も新派・旧派の枠を超えて東京画壇で精力的に活動していたが、昭和3年、下谷清水町の自宅で58歳で没した。師の景年との厚誼は生涯変わらず、景年は上京すれば必ず呉嶠宅に宿泊したという。
他に同時代に活動した京都の日本画家としては、後素協会の委員をつとめた三宅呉暁、草野龍雲、梅村景山、森雄山をはじめ、東京に移住し日本画会評議員、日本美術協会会員として活躍した村上委山らがいる。
小林呉嶠(1871-1928)こばやし・ごきょう
明治4年京都生まれ。本名は喜三郎。四条派の今尾景年に学んだ。はじめ関西を中心に活動し、明治28年日本青年絵画共進会で3等賞。明治23年第3回内国勧業博覧会で入賞し、3回連続で同博覧会に入選した。明治29年後素協会の委員に推されたが同年師の許しを得て上京、日本絵画協会に参加した。明治31年日本美術院の設立に際して評議員となったが、歴史画を尊重する同院の風潮に合わず離脱。明治33年岡倉秋水らと日月会を結成。日本美術協会や明治絵画会、文墨協会の委員や幹事をつとめた。明治37年セントルイス万国博覧会で銀賞牌、明治40年日本美術協会展で2等賞を受賞。同年文展が開設されると旧派の画家たちと正派同志会を結成し、幹事に就任するなど東京における四条派の重鎮として活躍した。昭和3年、58歳で死去した。
三宅呉暁(1864-1919)みやけ・ごぎょう
元治元年京都生まれ。名は守広、通称は清三郎。別号に心遠斎がある。四条派の森川曽文に師事した。明治19年京都青年絵画研究会で3等を受賞。明治24年青年作家懇親倶楽部の結成に参加。同年同会主催の京都私立日本青年絵画共進会で2等を受賞し、また、内国勧業博覧会でも受賞を重ねた。翌年の同会主催の第1回全国絵画共進会、明治32年の第2回でともに4等を受賞した。明治30年から40年まで京都美術工芸学校教諭をつとめた。明治43年第4回文展で褒状を受けた。大正8年、56歳で死去した。
草野龍雲(1864-不明)くさの・りゅううん
元治元年京都生まれ。名は壽太郎。別号に常正がある。岸竹堂に師事した。明治29年に結成された後素協会では委員をつとめた。
梅村景山(1866-1934)うめむら・けいざん
慶応2年京都生まれ。本名は豊三郎。明治10年から今尾景年に学んだ。また、鈴木瑞彦にも師事した。明治16年奈良博覧会で褒状。日本絵画協会の第5、9、10、11回の連合絵画共進会に出品し、そのうち第5回で3等褒状、第9回・第10回で1等褒状を受けた。明治29年に結成された後素協会では委員をつとめた。昭和9年、69歳で死去した。
森雄山(1869-1917)もり・ゆうざん
明治2年京都生まれ。森寛斎の孫。のちにその養子となり森家を継いだ。明治27年日本青年絵画協会第3回絵画共進会で3等褒状、翌年の第4回でも3等褒状を受賞した。明治29年に結成された後素協会では委員をつとめた。子の愛一(森公挙)は山元春挙についた。大正6年、48歳で死去した。
村上委山(1867-1936)むらかみ・いざん
慶応3年京都生まれ。名は義和。別号に香霧(露)山房、白蓮画舫がある。家は代々三条公爵家に家臣として仕え、明治3年天皇東遷の際三条家にともない東京に移住した。はじめ阿部閑山、ついで滝和亭に師事した。明治23年全国青年絵画共進会で1等褒状、同年日本美術協会で銅賞を受賞。日本画会評議員、日本美術協会会員として活躍した。昭和11年、69歳で死去した。
京都(171)-画人伝・INDEX
文献:日本美術院百年史1巻上、日本美術院百年史2巻上、日本画家人名事典







