
森川曽文「群鹿図」東京国立博物館蔵
森川曽文(1847-1902)は、京都に生まれ、はじめ友禅の下絵を描いていたが、20歳の時に前川五嶺に絵の手ほどきを受け、一年余りののち、本格的に画家を志して江州八幡の長谷川玉峰に師事した。この際、画家になることを幸野楳嶺に相談したところ、絵をやるには遅すぎるから友禅の下絵を描いていたほうがいいと言われたという。
画家としての出発は遅かったが、明治13年に京都府画学校を設立されると出仕となり、明治19年には森寛斎、幸野楳嶺らと京都青年絵画研究会の設立について協議に参加し、翌年の京都新古美術会展で御前揮毫するなど、四条派の正系を継ぐ一人として認められるようになった。
以後も、内国絵画共進会、内国勧業博覧会、万国博覧会などで受賞を重なるとともに、日本美術協会、京都美術協会、後素協会などで委員をつとめ、明治20年代の京都画壇の一翼を担う画家として活躍した。また、尋常小学校や高等小学校の毛筆画手本を手掛け、明治26年に著した『小学日本画初歩』は、その使いやすさから多くの小学校が採用した。
掲載の「群鹿図」は、明治26年のシカゴ万国博覧会に出品されたもの。鹿は江戸期には円山四条派や森派によってよく描かれた画題で、曽文はそれをよく学んで自身の得意画題とした。
森川曽文(1847-1902)もりかわ・そぶん
弘化4年京都生まれ。幼名は勝次郎、名は英絢、字は士倩。はじめ前川五嶺に、のちに長谷川玉峰について四条派の画法を学んだ。明治14年第2回内国勧業博覧会で妙技3等、明治15年第1回内国絵画共進会銅賞、明治17年第1回内国絵画共進会で褒状、明治21年京都府画学校教諭。明治20年京都新古美術会展で御前揮毫。明治23年第3回内国勧業博覧会で妙技2等、明治28年第4回内国勧業博覧会で妙技2等、明治30年第1回全国絵画共進会で3等を受賞した。また、明治26年シカゴ万国博覧会、明治33年パリ万国博覧会など海外の展覧会にも出品した。晩年は病気がちになり、明治35年、56歳で死去した。
京都(151)-画人伝・INDEX
文献:円山応挙から近代京都画壇、近代の京都画壇、近代京都日本画史、日本美術院百年史1巻上、日本画家人名事典
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