画人伝・京都 山水・真景 魚類図

幕末から大正初期まで活躍した望月派四代・望月玉泉

望月玉泉「湍淵遊鱗図」東京国立博物館蔵

望月玉泉「湍淵遊鱗図」東京国立博物館蔵

望月玉泉(1834-1913)は、望月派三代・玉川の子として京都に生まれ、画法を父に、詩文を巌垣六蔵に学んだ。望月家は祖父・玉仙の代から京都御所に出入りしており、玉泉も若いころから宮中の仕事を多く手掛け、名をあげた。18歳の時に父・玉川が死去したため家督を相続し、幕末から大正初期にかけて長く活躍した。

明治11年、44歳の時に幸野楳嶺久保田米僊らとともに画学校の設立を京都府知事に建議し、翌々年の京都府画学校開設に際しては東宗の副教員として教壇に立った。同校では写生画・大和絵を担当し、同時に京都盲唖院や京都府の女学校でも教員をつとめ、美術教育の分野でも大きく貢献した。

明治15年の第1回内国絵画共進会で絵事功労褒状を受けるなど、長い活動期間のなかで内外の各種展覧会や博覧会で受賞を重ね、京都画壇を代表する名家と目され、明治37年には帝室技芸員に任命された。門下には川合玉堂や跡見玉枝らがおり、その影響は東西にわたり広くみられる。

望月玉泉(1834-1913)もちづき・ぎょくせん
天保5年京都生まれ。望月派三代・望月玉川の二男。名は重岑、字は主一、通称は駿三。別号に玉溪がある。嘉永5年父玉川が死去したため望月派四代を継いだ。明治13年の京都府画学校開設に際しては東宗の副教員として教壇に立ち、同時に京都盲唖院や京都府の女学校でも教員をつとめた。明治15年第1回内国絵画共進会で絵事功労褒状を、明治17年第2回展では銅賞を受賞。京都府画学校を退職した明治22年のパリ万博で妙技銅賞、翌年の第3回内国勧業博覧会では妙技3等を受賞した。明治26年のシカゴ万博、明治28年第4回内国勧業博覧会でも受賞を重ねた。明治29年後素協会の発足に尽力。明治37年帝室技芸員に任命された。大正2年、80歳で死去した。

京都(144)-画人伝・INDEX

文献:円山応挙から近代京都画壇、近代の京都画壇、近代京都日本画史、日本画家人名事典(大正時代)、日本美術院百年史1巻上




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