
神坂雪佳 上:「狗児」下:「牧童」(百々世草のうち)
神坂雪佳(1866-1942)は、京都粟田の士族の家に生まれ、16歳で四条派の鈴木瑞彦に入門して日本画を学び始めた。22歳で川島織物工場に入り織物図案の実地研究をはじめ、その間、欧州帰りの政治家・品川弥二郎から装飾芸術に関する話を聞き、図案に転向する決意をし、明治23年、東京に出て図案家の岸光景に師事した。
早くから琳派の研究に取り組み、独自の解釈で琳派をとらえ、大胆な構図や「たらしこみ」といった独特の技法をアレンジして継承した。明治26年には竹内栖鳳とともに芦手絵会を結成し、絵画と工芸の接点を探り、明治34年には欧州に留学し、当時ヨーロッパで流行していたアール・ヌーヴォーを視察し、帰国後は西洋の感性を取り入れつつ、日本の伝統美を実用的なデザインへと昇華させた。
その才能は、絵画、染織、漆芸、陶芸、家具、さらには図案集の刊行にいたるまで多岐にわたる分野で発揮され、その多彩な創作活動を通して、工芸品の下絵を描く画工を、図案家、意匠家として社会的に認知させるなど、京都の工芸界・図案界に大きな足跡を残した。
一方で、京都市立美術工芸学校図案科で長く教鞭をとり、後進の指導にもあたった。明治40年に工芸の研究機関として佳美会を創設、これは佳都美会などと名を改めつつ昭和前期まで続いた。
掲載の「百々世草」は、雪佳の代表的な図案集で、60種類の図案からなる。明治42年から43年にかけて上・中・下の3巻続きで京都の老舗美術書出版社である芸艸社から刊行された。
神坂雪佳(1866-1942)かみさか・せっか
慶応2年京都生まれ。本名は吉隆。京都御所警護の武士・神坂吉重の長男。明治14年四条派の鈴木瑞彦に入門して日本画を学び始めたが、装飾芸術、図案の分野に関心をもつようになり、明治23年東京に出て図案家の岸光景に師事した。図案による琳派研究を行なった。明治29年京都市立美術工芸学校図案調整所の主任に就任、3年後には京都市技師として京都で本格的に活動を開始した。明治38年同校図案科の教授となった。その間、明治31年から「京都美術協会雑誌」の編集者をつとめ、明治34年には工芸図案研究のため欧州に留学した。明治40年工芸の研究機関として佳美会を創設。晩年は嵯峨野に隠棲しながら創作活動を続けた。昭和17年、77歳で死去した。
京都(172)-画人伝・INDEX
文献:京都と近代美術、京都画壇における琳派のエッセンス







