
菊池芳文「桜花群鴉図」
菊池芳文(1862-1918)は、表具師の二男として大坂に生まれ、はじめ滋野芳園に学び、のちに19歳で京都の幸野楳嶺に師事した。入門の翌年、20歳で第1回内国絵画共進会で銅賞となり、その後も各展で受賞を重ね、若くして画名をあげた。
近代的な感覚の色彩や構図による花鳥画を得意としたが、幅広い画題で評価を得て、竹内栖鳳、谷口香嶠、都路華香とともに楳嶺門下の四天王と称され、その年長者として他の3人とともに新時代の開拓を進め、近代京都画壇を牽引した。
その一方で、自身の画塾や京都府画学校、京都市美術学校などで後進の指導にあたり、京都市立絵画専門学校の設立にも尽力し、明治42年の開校から教授をつとめた。明治40年に開設された文展では第1回展から審査員をつとめた。
菊池芳文(1862-1918)きくち・ほうぶん
文久2年大坂生まれ。表具師・三原三郎兵衛の二男。本名は常次郎、のちに名を克興、字は公起とした。のちに親戚の菊池家の養子となった。はじめ大阪で滋野芳園に学び、のちに京都で四条派の幸野楳嶺に師事した。明治15年第1回内国絵画共進会で銅賞、明治17年の第2回共進会でも銅賞を受賞した。明治19年の京都青年絵画研究所展で1等賞を受賞。明治23年第3回内国勧業博覧会で妙技3等を受賞、明治28年の第4回、明治36年の第5回展でも受賞した。明治29年には後素協会の発足に参加して委員となった。また、明治27年から京都市美術学校教諭をつとめ、京都市立絵画専門学校の設立に尽力、明治42年の開校から教授をつとめた。明治40年開設の文展では第1回展から審査員をつとめ、大正6年には帝室技芸員となった。大正7年、57歳で死去した。
京都(163)-画人伝・INDEX
文献:日本の花鳥画、近代の京都画壇、円山応挙から近代京都画壇、京都国立近代美術館所蔵名品集[日本画]、近代京都日本画史、京都と近代美術、日本画家人名事典







