近世の土佐では、藩の御用絵師は狩野派がつとめ、知識人の間では南画が広まっていた。そのためか、その他の流派はきわめて少ない。記録にある画人としては、土佐光貞に学んだ滝口国成(不明-1848)が唯一の土佐派であり、森狙仙に入門した宮尾流芳斎(不明-不明)、円山応挙に学んだ山本梧嶺(不明-1781)や村田龍亭(不明-不明)がいるばかりである。
滝口国成(不明-1848)
藩の中老・前野大内蔵。主税、玄蕃とも称した。遠祖が使った滝口姓に実名の国成を合わせて画の落款とした。土佐光貞に師事した。光貞との結びつきははっきりとしないが、能茶山の陶器に光貞の絵付がある。また、土佐でも光貞とその子・光孚の作品が残っており、光貞は子の光孚とともに土佐の地を訪れたのではないかとも考えられている。嘉永元年病死した。
宮尾流芳斎(不明-不明)
宇佐村の紺屋に生まれ、幼いころから画を好んでいた。ある時、船便を得た流芳斎は、画の修業のために大坂に出て、森狙仙の塾に入った。しかし師もてこずるほどの不器用さだったらしく、たまりかねた師の狙仙は、流芳斎に国元に戻り、家業か農業、漁業をして暮らしたほうが幸せだと諭した。それから狙仙は、画室に籠り三日がかりで猿の画を仕上げ、その画料で盛大な送別会を開いたという。しかし、流芳斎は国元に帰っても筆を置くことはせずに生涯描き続けたらしい。比較的多くの作品が地元に残っている。
山本梧嶺(不明-1781)
長岡郡大津村の郷士。字は真郷、名は鼎。山本久左衛門の二男で山本宅男と称した。幼いころから画を好み、藩の絵師村上家について学び、のちに京都に出て円山応挙、月湖山人に教えを受け、その後は諸国を放浪し旅絵師となった。晩年になって伊勢の国に行き、外宮の御師・蓬莱雅楽守の家に寓居した。その時に、伊勢の地に師の円山応挙の「墨竹」の画碑を建てるなどした。安永10年、蓬莱家で客死した。
村田龍亭(不明-不明)
通称は勇助、字は潜深、名は鱗龍。代々医師の家に生まれ、町医を業としていたが、画を好み狩野の筆技で描いていた。龍亭は山本梧嶺と同時代の人で、城下で絵を描いたところ注文が多く、これに気をよくして江戸に出たがうまくいかず、京都に行き円山応挙と親しく交友した。
高知(5)-画人伝・INDEX
文献:土佐画人伝