砂金文洲とともに水沢を代表する画人・菅原竹侶(1824-1893)は、優れた門弟を育成し、水沢地方の絵事が開花する基盤を築いた。8歳から学問を須田一睡に学び、文墨を砂金嘉門次郎に習った。24歳の時に砲術と絵画修業のため江戸に出て、砲術を井上左太夫に、絵を三井梅嵓に学び、一ヶ月あまりで師をおどろかすほど画技が上達したが、領主命によって帰郷した。
25歳から52歳まで仙台と水沢間にあって、領主留守家や伊達家臣邸に出入りし、制作活動をしている。多くの人と交わりながら地方絵事に深く関与し、明治9年の明治天皇の水沢行幸の際は、山水を行在所の壁に描き、画二幀を作成し、天覧に供して嘉賞金を賜ったという。また、菅原嘯雲、砂金竹香、佐藤耕雲、村上望山、三宮竹谷ら多くの門弟を育てた。
菅原竹侶(1824-1893)すがわら・ちくろ
文政7年生まれ。菅原常恒の子。名は圭之輔、常元。字は素遊(游)。画屋名を臥雲楼、錦雲堂、以雲楼と名付け、大畑小路に住んでいた。明治26年、69歳で死去した。
岩手(19)-画人伝・INDEX
文献:水沢画人伝、藩政時代岩手画人録