小野寺周徳(1759-1814)、橋本雪蕉(1802-1877)とともに「花巻の三画人」に数えられる八重樫豊澤(1763-1842)は、花巻の寺小屋師匠の家に生まれた。父の善兵衛は花巻に寺小屋を開いた最初の人で、庶民教育の草分け的存在だった。豊澤も一時は寺小屋の師匠をしていたが、家業を継ぐことはなく養子に家を任せて、自分は諸国漫遊の旅に出かけた。絵は小野寺周徳に学んだが、周徳の没後は新たな師を求めて、谷文晁の門をたたいたとも伝わっている。
谷文晁、菅井梅関をはじめ多くの文人墨客と交流しており、文化4年に下北半島まで旅行した谷文晁が花巻に宿泊した折、宿先で一夜語り明かしたとも伝わっている。また、作品の中に見られる賛から、儒学者・中嶋豫斎、高僧・瑞巌寺南山古梁、俳人では小野素郷、伊藤鶏路、丸尾浣素、画人では牧田歴山、田口森蔭らとの交友関係が確認されている。
門人には橋本雪蕉、森川孫市、菅原黒川らがいるが、一族からも多くの画人を出している。養子の堅治は豊川と号して書画をよくし、孫の多田豊洋(1825-1903)は、医術を伊藤玄円に学び、謡曲などの芸事もたしなんだ。豊澤の娘・テツは豊谷と号し、その妹・清は島市左工門に嫁ぎ、その子・寿安は医師となり鵲斎と号して書画をよくした。
八重樫豊澤(1763-1842)やえがし・ほうたく
宝暦13年生まれ。花巻城下の寺小屋師匠・八重樫善兵衛の二男。通称は豊次郎、兵蔵。別号に彭沢、臥牛、孤山、盤遊亭がある。絵は小野寺周徳に学び、寺小屋の師匠をしながらその合間に絵筆をとった。中国の故事に取材した「道釈人物画」を得意とした。兄の善次郎が8歳で没していたため、寺小屋を継がなければならなかったが、家業は養子に迎えた堅治に任せて、諸国漫遊に出るなど、晩年は画業三昧の生活をした。天保13年、80歳で死去した。
多田豊洋(1825-1903)ただ・ほうよう
文政8年生まれ。八重樫豊澤の孫。はじめ八重樫染太郎、のちに多田主馬忠親の末裔ということで多田憲章と改名した。別号に遊々がある。医術を伊藤玄円に学び、松浦武四郎、頼三樹三郎らと交友した。嘉永2年藩主継承問題に連座して川上玄之、嶋川瀬織、江帾春庵、及び従兄の浅石市太郎とともに幽閉され、文久2年から田名部に13年間流された。のちに千葉県印旛郡木下村に転居したが、明治36年に盛岡に戻り、甥の堀内政定の家に寄寓し、同年、79歳で死去した。
岩手(8)-画人伝・INDEX
文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、青森県史 文化財編 美術工芸、藩政時代岩手画人録、宝裕館コレクション、東北画人伝