祥啓(不明-不明)の出自については不明な点が多く、生まれは真壁郡下館(現在の筑西市)とも常陸小田(現在のつくば市)ともされ、野州宇都宮の画家丸良氏の子として、現在の栃木県宇都宮市に生まれたという説もある。結城の華蔵寺には、祥啓が寄寓した跡とする梅塚があり、ここで祥啓が清亭という庵を結んだと伝わっており、茨城の県西地域には、不明瞭だが祥啓の足跡を見ることができる。
祥啓は、鎌倉建長寺塔頭宝珠庵の住僧で、書記役についていたことから啓書記とも呼ばれた。画事は、はじめ同じ建長寺の仲安真康に学んだとみられ、その後、文明10年に京都に上って芸阿弥に学んだ。またその際、足利将軍家所蔵の唐絵も研究したとみられる。3年後に鎌倉に戻る際に、師の芸阿弥から画法伝授の証として「観瀑図」を贈られており、この図の賛によって師弟関係が明らかになった。
山水、花鳥、人物を幅広くこなしているが、山水図は芸阿弥ゆずりの真山水で、花鳥、人物画は唐絵を模写した習作的なものが多い。祥啓が鎌倉を中心とした地方画壇に与えた影響は大きく、関東の水墨画は祥啓を中心に土着性を脱して、垢抜けた平明な表現になっていったとされる。
祥啓(不明-不明)しょうけい
鎌倉建長寺塔頭宝珠庵の住僧。諱は賢江、雪溪と号し、貧楽斎、休月斎龍杏と称した。生没年は不明だが、生地については真壁郡下館、常陸小田、宇都宮などの説がある。鎌倉建長寺の書記をつとめ、啓書記とも呼ばれた。文明10年京都に上って芸阿弥に学び、一方で足利将軍家所蔵の唐絵を研究した。主として鎌倉在住の時期に優作を残しており、永正3年玉隠序の「鐘秀斎図」「瀟湘八景図帖」、明応9年玉隠賛の「喜江禅師像」、南禅寺蔵「達磨図」などいずれも重要文化財の指定を受けている。啓孫、僊可、啓拙斎、興悦などは祥啓の門人と考えられている。
茨城(1)-画人伝・INDEX
文献:茨城の画人、型とイメージの系譜 関東水墨画、室町時代の水墨画、中世にみる型とイメージの系譜 関東水墨画の200年