画人伝・兵庫 洋画家 人物画

芦屋市美術協会の創立に参加し芦屋市展の発展につとめた伊藤継郎

伊藤継郎「二人の司教」

伊藤継郎「二人の司教」

伊藤継郎(1907-1994)は、大阪市に生まれ、16歳の時から松原三五郎が主宰する天彩画塾に学び、同塾閉鎖後は赤松麟作が主宰する赤松洋画塾(のちに赤松洋画研究所と改称)に入った。のちに鍋井克之を知り、24歳頃から信濃橋洋画研究所に通った。

昭和3年、21歳の時に兵庫県武庫郡精道村(現在の芦屋市)に転居し、以後同地を拠点とし、昭和5年の兵庫県美術家連盟の創立にも参加した。同年二科展に入選し、以後二科展に出品したが、昭和16年に小磯良平参考)らの誘いにより新制作派協会会員となり、以後同展に出品した。

また、浪速短期大学、大阪芸術大学、京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)、大手前女子短期大学の教授を歴任するとともに、自宅アトリエで研究会、教室を開き、美術教育に貢献した。昭和23年には芦屋市美術協会の創立に参加して芦屋市展の発展につとめ、昭和47年からは52年まで代表をつとめた。

伊藤継郎(1907-1994)いとう・つぐろう
明治40年大阪市生まれ。大正12年福島商業学校在学中に松原三五郎主宰の天彩画塾に入った。大正13年同校を卒業したが同年天彩画塾が閉鎖されたため赤松麟作主宰の赤松洋画塾(のちに赤松洋画研究所と改称)に入った。昭和5年第17回二科展で初入選。同年兵庫県美術家連盟の創立に参加。昭和6年頃から信濃橋洋画研究所に通い始めた。昭和12年二科会会友となったが、昭和16年同会を脱退、小磯良平、猪熊弦一郎らの誘いで第6回新制作派協会展に出品、会員となった。昭和23年芦屋市美術協会の創立に参加。昭和36年浪速短期大学、大阪芸術大学の教授に就任。昭和40年京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)西洋画科教授に就任。昭和45年同大学を退職して大手前女子短期大学教授となった。平成6年、86歳で死去した。

兵庫(63)-画人伝・INDEX

文献:兵庫の美術家県内洋画壇回顧展、神戸ゆかりの芸術家たち、芦屋の美術、伊藤継郎展




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