画人伝・京都 円山四条派 動物画

円山派に転じた狩野派山本家6代目・山本守礼

山本守礼「梅花狗子図襖」大乗寺

山本守礼「梅花狗子図襖」大乗寺

山本守礼(1751-1790)は、京都の富商の家に生まれ、のちに山本探川の養子となって山本家6代目を継いだ。山本家は京都で代々狩野派の画風を伝えた家で、3代目の山本素軒は尾形光琳の師として知られる。しかし、6代目の守礼は早くから円山応挙の門に学んでいたことから、山本家は守礼の代で狩野派から円山派に転じたことになる。

守礼が何歳で応挙の門に入ったかは定かではないが、天明4年に尾張の明眼院書院の障壁画制作に応挙とともに参加し、応挙一門が参加した天明7年の大乗寺の障壁画制作では、使者の間の「少年行図襖」8面と、狗子の間の「梅花狗子図襖」11面を担当している。このことから、守礼はかなり早い時期の応挙門下での主要画家だったと思われる。

しかし、寛政2年に40歳で没したため、同年応挙一門が参画した寛政度御所造営には参加できていない。おそらく、多くの応挙門下のなかで最も早く世を去ったひとりと思われ、そのため今日知られる作品も極めて少ない。

山本守礼(1751-1790)やまもと・しゅれい
宝暦元年京都生まれ。富商・茗荷屋亀岡五良右衛門の二男。本姓は藤原、旧姓は亀岡、姓は山本、名は守礼、字は子敬、通称は数馬。久珂、探芳斎と号した。狩野派の山本探川の養子となって山本家を継いだ。狩野派を継ぎながらも円山応挙に学び、天明4年の尾張明眼院書院の障壁画制作や、天明期の大乗寺障壁画制作に参加、明和7年の仙洞御所造営にも参加している。寛政2年、40歳で死去した。

京都(105)-画人伝・INDEX

文献:円山応挙から近代京都画壇、京都画壇の一九世紀(2)、大乗寺




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