全国的な南画の隆盛に寄与した尾張南画の中林竹洞、山本梅逸は、美濃における南画の発展にも大きな影響を及ぼした。美濃の南画家として名を残した、高橋杏村、村瀬秋水、山田訥斎らはみな竹洞、梅逸に師事した。
高橋杏村は文政から天保にかけて京都に遊学し、この時に中林竹洞に学んだ。竹洞が京都で名声をほしいままにしていた頃、若くしてその画法を修めている。とくに杏村の初期作には、竹洞の画風をよく研究したものがみられ、その影響力は大きなものがあったと思われる。また、漢学者として名高い村瀬藤城の弟・村瀬秋水も、13歳の時に名古屋に出て張月樵、中林竹洞に学んだ。
山本梅逸の弟子としては、山田訥斎が高弟として知られ、師の画風を忠実に伝える花鳥画を多く残している。片野南陽も梅逸に師事しており、この地方における梅逸の影響力の強さを物語っている。
山田訥斎(1814-1873)やまだ・とつさい
文化11年羽栗郡笠松生まれ。薬種商・山田国春の子。名は惟孝、字は子友、通称は嘉兵衛。少年の頃から画を好み、はじめ笠松の広瀬春樵について学んだが、のちに尾張の山本梅逸の門に入り本格的に学んだ。梅逸の高弟の一人として画名は高まり、訥斎の画塾に入門するものも多かった。また、勤王家でもあり、梁川星巌、頼三樹三郎らとも親交があった。画のほか詩文、篆刻もよくし、和歌などを学ぶなど多芸多才であったという。明治6年、60歳で死去した。
片野南陽(1840-1882)かたの・なんよう
天保11年安八郡五反郷生まれ。名は龍蔵、字は震。書斎を「攬秀書屋」と呼んだ。幼い頃に漢学者・青木東山の門に入り詩文を学び、画は山本梅逸に師事した。父の片野萬右衛門とともに、治水事業に従事するかたわら、書画骨董を収集して鑑賞し、画技の研鑚に励んだ。明治初年四郷村の戸長として、地域の振興に尽力した。明治15年、43歳で死去した。
高木萬水(1819-1865)たかぎ・ばんすい
文政2年養老郡多良生まれ。名は貞広。山本梅逸に師事した。慶応元年、47歳で死去した。
岐阜(4)-画人伝・INDEX