三宮竹谷 さんのみや・ちっこく
慶応元年吉小路に生まれる。名は小太郎。三宮郡蔵の子。菅原竹侶に学び、宮城、秋田、山形などを遊歴した。明治17年19歳の時、内国絵事共進会に、南画の山水、花卉を出品している。明治25年から28年まで水沢町有給助役、明治34年から40年まで町会議員を務めた。画業に関しては不明な点が多く、市内に残っている作品は極めて少ない。昭和6年、堺市において66歳で死去した。
村上望山 むらかみ・ぼうざん
明治3年1月15日吉小路に生まれる。名は望子(もちこ)。留守家の家臣・佐藤竜三郎の長女。旧姓は佐藤。幼時から絵画を好み、4歳から菅原竹侶に学び、7歳の時には「香」の号と「望女七歳」の印を使っていた。9歳で仙台絵画会に臨み、上京して服部波山に師事した。明治14年に帰郷し明治天皇行幸の時行在所で「御給仕役」として出任、以後は望山と号した。明治15年、12歳の時に祖父とともに上京、滝和亭、木村香雨、服部波山らの指導を受けた。結婚後は東京に住んでいたため、水沢にはほとんど作品は残っていない。昭和14年7月20日、69歳で死去した。
佐藤耕方 さとう・こうほう
明治21年旧水沢町に生まれる。名は藤太郎。文化年間から繁栄した太物商の五代目当主として生まれたが、母ハツは耕方出生直後に19歳で死去し、一関から来た父の初は実家に戻り、戸籍上では祖父弥一、祖父ミノの子となっている。小学校在学中に祖父が死去し、卒業後は呉服修業のため上京、奉公先の子どもの子守をしながら、近所に住んでいた水野年方の家の庭先で年方が絵を描くのを見るのが日課となり、その熱心さをかわれて年方の直弟子となった。明治37年祖父が死去したため帰郷して家業を継ぐが、水沢と東京間を往復して画業に励んだ。明治41年年方が死去したため、大正2年妻子を残して単身で上京、尾形月耕に師事した。この時、両師匠の雅号の一字を許されて「耕方」と号した。大正5年家業を分家に任せて一家で上京、本格的に画業に取り組むが、大正7年二男耕也、長女よし子、妻りんらをスペイン風邪で次々に亡くし、大正9年には月耕が死去、大正10年には自身の病のため帰郷するが、12年には再度上京して日暮里方面に画友と住んで画業に励むが、昭和2年病が再発して帰郷した。並々ならぬ画業への意欲を見せるなか、幾多の苦難を経るうちに酒におぼれ、この地方では「酒のみ、屋台つぶしの画人耕方」として、陽の目をみずにいた薄幸の画人として伝わっている。昭和12年5月28日、49歳で死去した。
水沢(2)-ネット検索で出てこない画家
文献:水沢画人伝