喜多方に生まれた結城真沙子(1911-1929)は、幼いころから絵が得意で、通っていた尋常高等小学校では似顔絵を描いてみせるなど、周囲にも認められる存在だった。しかし、家事の手伝いで家畜用の餌を作っていた時に左指を切断するという事故に遭ってしまい、娘の将来を心配した父親は、絵の才能を伸ばしてやろうと、当時しばしば喜多方を訪れていた横山大観のもとに娘の弟子入りを請うために訪れた。
生涯弟子をとっていない大観だったが、幾度となくやってくる父親の熱意にほだされ、真沙子を弟子としてではなく、お手伝いさんとして招き入れることにした。真沙子が14、5歳の時である。真沙子は、炊事、掃除などの時間以外は絵を制作してよいという条件で、大観の留守中は大観の絵の具を自由に使ってもよいという許しも得て、制作に励んでいたが、結核を患い18歳の若さで死んでしまう。
ローマ日本美術院のために渡伊していた大観は、日本に戻ってきてから真沙子の死を知り、真沙子の魂にささげるための小品を家族のもとに届けたという。
結城真沙子(1911-1929)ゆうき・まさこ
明治44年喜多方町高吉生まれ。本名は昌子。喜多方女子尋常高等小学校の頃から絵を得意とし、14、5歳の頃からお手伝いさんとして横山大観のもとで制作に励んだ。しかし、結核を患って実家へ戻り、昭和4年、18歳で死去した。
福島(31)-画人伝・INDEX
文献:喜多方地方の画人展