福岡藩御用絵師筆頭の尾形家が、藩主画像や城郭殿舎の内部絵付、席画や寺社の寄進画の制作などを主な仕事にしていたのに比べ、次席に位置する衣笠家が藩主画像や席画の御用にあたった形跡はほとんどなく、絵図の御用が多かったとみられる。福岡藩の御用絵師はすべて狩野派だったが、衣笠家では大和絵風の主題や趣致によるものが多く残っている。また、初代守昌は「牛馬図屏風」(掲載作品)のような漢画風の作品も描いている。
衣笠家は、初代守昌から8代続いたが、8代守正の時に明治政府ができ、御用絵師も廃業になったため、守正は市中で画塾を開き、画事を続けた。その門下からは近代福岡の代表的日本画家である冨田溪仙が出ている。上田家は衣笠家とほぼ同格の家柄で、衣笠家と同じく藩主画像や席画をつとめた形跡はなく、特徴としては仏画、道釈画、頂相などに多くの作品が残っている。
衣笠守昌(不明-1705)きぬがさ・もりまさ
福岡藩御用絵師衣笠家初代。通称は半助。駿毛翁と号した。黒田家3代藩主光之と4代綱政に仕えた。狩野探幽の門人だったとされ、探幽守信から一字を拝領し守昌と号したと思われる。幕府の命によって元禄10年に始まった国絵図の制作に子の守弘とともに携わった。宝永2年死去した。
衣笠守弘(不明-1743)きぬがさ・もりひろ
福岡藩御用絵師衣笠家2代。衣笠守昌の子。通称は半太夫、のちに半助、または守重守高などと称した。狩野探幽の門人とされる。享保19年継高公が家老吉田家にお成りの節竹翁吉田治年の命により押込の戸に鶴亀松竹の絵を描いたことで知られる。晩年にかけて入道して要人と号したらしい。寛保3年死去した。
衣笠守恒(不明-1758)きぬがさ・もりつね
福岡藩御用絵師衣笠家3代。衣笠守弘の子。宝暦8年死去した。
衣笠守岡(不明-1789)きぬがさ・もりおか
福岡藩御用絵師衣笠家4代。衣笠守恒の子。名は半蔵、はじめ守雄といった。寛政元年死去した。
衣笠守起(不明-1798)きぬがさ・もりおき
福岡藩御用絵師衣笠家5代。名は要、はじめ万平次といった。寛政10年死去した。
衣笠守由(1785-1852)きぬがさ・もりよし
天明5年生まれ。福岡藩御用絵師衣笠家6代。東長兵衛の二男。衣笠守起の養子となり家督を継いだ。通称は久之助、のちに要。福草舎と号した。黒田斉清と長溥に仕えたと思われる。桑原鳳井の最初の師とされる。嘉永5年、68歳で死去した。
衣笠守是(1822-1894)きぬがさ・もりよし
文政5年生まれ。福岡藩御用絵師衣笠家7代。高木延蔵の子。衣笠守由の養子となって家督を継いだ。通称は半蔵。華旭斉、翻叟と号した。明治27年、73歳で死去した。
衣笠守正(1852-1912)きぬがさ・もりまさ
嘉永5年生まれ。福岡藩御用絵師衣笠家8代。通称は八郎。探谷と号した。冨田溪仙の最初の師。大正元年、61歳で死去した。
上田永朴(1656-不明)うえだ・えいぼく
明暦2年生まれ。名は主常、通称は権太郎。上田太兵衛の子。はじめ父に学び、のちに狩野昌運の門に入ったと思われる。その後、江戸に出て中橋狩野家永叔主信に学び、さらに木挽町の養朴常信にも師事したことが伝えられている。鷲峯斎と号した。享保13年以降、73歳以上で死去した。
上田主親(不明-不明)うえだ・もりちか
上田永朴の長男。狩野主信の門人。黒田家に仕えた。
上田主治(不明-不明)うえだ・もりはる
生没年および生涯についてほとんど不明だが、上田家の一族とされる。江戸の狩野家で本格的に修業した絵師であることが知られる。博多聖福寺、承天寺に作品が残っている。
福岡(4)-画人伝・INDEX
文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム、狩野派と福岡展、筑前名家人物志、福岡県日本画 古今画人名鑑、斎藤秋圃と筑前の絵師たち