画人伝・福井 狩野派 中国故事

福井藩の御用絵師をつとめた狩野家と奈須家

狩野元昭「十六羅漢図襖」福井市大安禅寺蔵

狩野元昭「十六羅漢図襖」福井市大安禅寺蔵

狩野元昭「十六羅漢図襖」福井市大安禅寺蔵

福井藩最初の御用絵師となった狩野了之が没した後は、江戸で狩野安信に学んだ嫡男の狩野元昭(1623-1681)がその跡を継承した。元昭の跡は長子の竹雲が相続したが、貞享3年の藩主綱昌改易と時を同じくして竹雲が没したため、福井狩野家は断絶した。

その後、元昭の四男である狩野興碩(1667-1739)が江戸に出て中橋狩野家の永叔に学び、元禄7年福井藩に帰参を許され、福井藩の御用絵師となって家を再興した。

七代永玄も中橋狩野家に学び、藩主の別邸だったお泉水の絵画御用をつとめた。八代永昌は、天保3年に江戸藩邸の住居向御絵図認方や御国絵図御用掛となるなど、代々御用絵師の職にあり、福井狩野家は九代まで続いた。

当時の福井藩の御用絵師は、狩野家のほかに奈須家の絵師も召し抱えられていた。奈須家の初代泉石は、はじめ奈須清右衛門と称して江戸で中橋狩野家の安信に学び、のちに法橋に叙されている。寛文8年に四代藩主光通によって召し抱えられ、家は狩野家と同じく代々藩の御用絵師をつとめた。

奈須家は、中橋狩野家と関係が深く、二代泉碩は永叔に入門して師に従って上京し禁裏の絵画御用を果たし、六代凉泉も嘉永年間に永悳に師事している。

狩野元昭(1623-1681)かのう・げんしょう
元和9年京都生まれ。狩野了之の長男。通称は九郎次郎。了海、即翁斎などと号した。はじめ父に学び、のちに狩野宗家である安信門に学んだ。万治3年跡目相続が認められ、父同様に福井藩の御用絵師となった。藩主の菩提寺である大安禅寺の障壁画制作など藩の御用を多くつとめた。天和元年、59歳で死去した。

狩野興碩(1667-1739)かのう・こうせき
寛文7年福井生まれ。狩野元昭の四男。名は元房、のちに種信。別号に了章がある。兄の急逝と、貞享3年に藩領の半知によって家は断絶し以後浪々の身となったが、その後江戸で狩野宗家の永叔主信に学び、元禄7年、七代藩主吉品に召し抱えられ家を再興、父同様藩の御用絵師となった。元文4年、73歳で死去した。

福井(06)-画人伝・INDEX

文献:桃山の色 江戸の彩 福井ゆかりの近世絵画、郷土画家とその関連門流展




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