森田樵眠によって伝えられた円山四条派の流れは、伊予の地に広まっていった。東宇和郡野村町に生まれた松本仙挙(1880-1932)は、京都市立美術工芸学校絵画科に進み、卒業後も山元春挙に師事して「仙挙」の号を受け、文展、帝展に出品した。春挙の門からはほかに大西南山が出ている。京都絵画専門学校を卒業後に菊池芳文に師事した武田耕雪は、帰郷後に愛媛の日本画壇の中心となって活躍した。また、京都で芳文に師事したのちに東京に出て寺崎広業に学び、美人画を得意とした河崎蘭香は、のちに「日本国憲法の生みの親」と称される金森徳次郎とのかなわぬ悲恋のなかで早世し、「夭折の閨秀画家」と呼ばれた。竹内栖鳳の門からは、帰郷後に四条派を伊予の地に広めるなど県の美術振興に尽力した矢野翠鳳が出ている。ほかには、都路華香の門から出て長く愛媛の日本画壇を牽引した長谷川竹友、橋本関雪の門人として画才を認められながらも、師と写生に行く途中に自動車事故に遭い34歳で没した菊川南楊がいる。
松本仙挙(1880-1932)
明治13年東宇和郡中筋村生まれ。名は政興。京都市立美術工芸学校絵画科に入学し、日本画の教授であった山元春挙に学び、同校卒業後も春挙に師事して師からより「仙挙」の号を受けた。明治40年には結婚し帰郷して教鞭をとっていたが、大正4年に再び京都に出て画業に専念、その後は文展・帝展に出品した。昭和7年、京都において53歳で死去した。
大西南山(1874-1943)
明治7年周桑郡丹原町大字徳能生まれ。名は宗祐。山元春挙、寺崎広業に師事し、山水、鯉魚を得意とした。文展に出品し、宮内省買い上げになっている。画業のかたわら詩文をよくした。昭和18年、68歳で死去した。
武田耕雪(1889-1973)
明治22年周桑郡丹原町大字古田生まれ。本名は規太郎。西条中学から京都絵画専門学校を卒業、菊池芳文に師事した。大正10年に帰郷し、愛媛の日本画壇の中心となって活躍した。昭和48年、87歳で死去した。
河崎蘭香(1882-1918)
明治15年八幡浜生まれ。川崎奨の長女。名は菊。通称は菊子。西宇和郡郷村の医師の神山家に生まれ、河崎家の養女となった。八幡浜の小学校を出て音楽学校に1年通ったあと、京都に出て菊池芳文について学び、のちに上京して寺崎広業に師事、美人画を得意とした。明治40年に東京勧業博覧会で鏑木清方、結城素明らとともに三等賞を受け、同年開設された文展に出品、以後文展で受賞を重ね、将来を嘱望されたが、大正7年、37歳で東京において死去した。
矢野翠鳳(1870-1944)
明治3年伊予郡砥部生まれ。名は芳三郎。近藤元修、浦屋寛制について漢学を修め、小学校教員になった。その後、松山の松浦巌暉について日本画を学び、明治35年には京都に出て竹内栖鳳に師事、動物画を得意とした。37年帰郷して伊予に四条派の画風を伝え、伊予美術協会、愛媛美術工芸会の会員となって県美術振興に尽力した。昭和19年、75歳で死去した。
矢野翠堂(1897-1973)
明治30年伊予郡砥部町生まれ。本名は芳樹。松山市立工業徒弟学校を卒業し、愛媛県庁、伊予鉄に勤務した後、大正7年に父・矢野翠鳳に学び、2年後に上京して川合玉堂の長流画塾で学んだ。伊予美術展、県展などに出品した。昭和48年、77歳で死去した。
伊賀上雄鳳(1895-1948)
明治28年松山市井門町生まれ。本名は静雄。18歳で京都に出て竹内栖鳳に学び、師の一字を受けて「雄鳳」と号した。また、中国に渡り王一亭、呉昌碩にも師事した。戦前は神戸で鳳栄画塾を主宰して多くの後進を育てた。昭和20年に帰郷してからは、愛媛美術協会、愛媛日本画研究会の発起人になるなど、愛媛画壇再建に尽力した。昭和23年、55歳で死去した。
加藤揚州(1883-1926)
明治16年生まれ。名は興。別号に岡谷がある。松山中学3年の時に聴覚を失った。京都に出て三宅呉暁、川北霞峰に師事、大正7年に帰郷して伊予美術展に出品した。写実に徹した動植物画、特に軍鶏を得意とした。大正15年、44歳で死去した。
佐々木天璋(1890~1928)
明治23年八幡浜市栗之浦生まれ。名は百太郎。幼いころから画を好み、長じて梶谷南海に学び、師から「南明」の号を受けた。のちに京都の佐々木九皐に師事し、さらに上京して田中頼璋の門に入り、「天璋」の号を受けた。人物、花鳥を得意とした。昭和3年、39歳で死去した。
長谷川竹友(1885-1962)
明治18年重信町拝志生まれ。名は武次郎。早くから京都に出て都路華香の門に入り、冨田溪仙とならんで将来を嘱望された。インド、中国をまわって中央で活躍したが、昭和11年に帰郷、県展などに出品した。愛媛県の日本画壇で長老的存在だった。昭和37年、78歳で死去した。
菊川南楊(1896-1929)
明治29年越智郡波方町小部生まれ。菊川辰次の四男。本名は十太郎。少年の頃から絵を好み、小学校卒業後に大阪の姫島竹外に師事した後、橋本関雪の門に入った。昭和元年帝展に初入選、画才を認められ、師に倣って西洋画を研究すべく洋行を計画していたが、昭和5年、関雪と那智の滝に写生に行く途中に自動車事故に遭い、34歳で死去した。
愛媛(13)-画人伝・INDEX
文献:伊予の画人、伊予文人墨客略伝