江戸の狩野派は武家社会に受け入れられ、日本各地で絶大な勢力を誇った。伊予松山藩においても、初代の松本山雪から明治にいたるまで、代々狩野派が御用絵師を引き継いでいたが、その途中で、狩野派ではない大和絵の住吉派の遠藤広古、広実父子二代が藩の絵師に加わっている。遠藤広古・広実親子は、住吉家の絵師として江戸に常府していた。広実には三人の子がおり、三男・広賢は住吉宗家を継いで八代当主となった。また、広実に学んだ好川尚賢は伊予の地に多くの作品を残している。
遠藤広古(1748-1824)
寛政元年江戸生まれ。松山藩絵師。本姓は梅原、のちに遠藤と改めた。幼名は広起。別号に蝸盧がある。住吉派四代・住吉広守について画法を学び、寛政年間に松山藩に招かれ藩絵師となった。それまで藩の御用絵師は狩野派系の画人が独占していたが、それに伝統的なやまと絵の住吉派の画人が加わることとなった。文政7年、77歳で死去した。
遠藤広実(1784-1862)
天明4年江戸生まれ。遠藤広古の子。幼名は古致、通称は伴助。父と同じく江戸の住吉派五代・住吉広行に学び、のちに松山藩の絵師になった。広実の作品は愛媛県内に比較的多く残されている。文久2年、79歳で死去した。
遠藤広宗(1824-不明)
文政7年生まれ。遠藤広実の長男。住吉弘貫に師事した。
遠藤貫周(1829-不明)
文政12年生まれ。遠藤広実の二男。住吉弘貫に師事した。
遠藤広賢(1835-1883)
天保6年生まれ。遠藤広実の三男。幼名は茂三郎、通称は内記。別号に藤廻屋、等塵がある。住吉弘貫に師事し、のちに弘貫の養子となり住吉宗家を継ぎ、幕府の御用絵師をつとめた。維新後はフェノロサと親しく交友した。明治16年、49歳で死去した。
愛媛(7)-画人伝・INDEX
文献:伊予の画人、愛媛の近世画人列伝-伊予近世絵画の流れ-、伊予文人墨客略伝