明治期の津軽地方で、最も優れた画家と評され、広く名を馳せたのは、馬を好んで描き「馬の如洋」とも称された野沢如洋(1865-1937)だった。弘前に生まれた如洋は、当時の津軽画人の第一人者・三上仙年に画才を認められ、12歳で仙年の門に入るのだが、如洋自身の激しい性格もあり、その画道は平坦なものではなかった。
明治17年、如洋は地元の小学校に勤務するが、この頃、津軽にも波及していた自由民権運動に参加するようになり、1年で小学校をやめ巡査になった。しかし、巡査も長くは続けられず、上司の喧嘩の仲裁に入って相手に裂傷をおわせたとして、上官反抗と傷害の罪で3カ月で免職となった。さらに、裁判では売られた喧嘩なのに自分だけが攻められることに憤慨し、裁判官席に飛び上がり、判事も法廷を逃げ出したという。このため数カ月の服役処分を受けることになったが、この服役が如洋にとって本格的に画家を目指す転機となった。
獄中の如洋は、毎日ひたすら絵筆を走らせ、刑期が終わるころには入監前とは見違えるほど進歩していたという。如洋は、さらに画道を極めるため、22歳で故郷を出て、盛岡、仙台、福島を経て東京に出たが、病のために北海道に渡り函館で静養。画会を開きながら道内を巡っていたが、父が重病であるという知らせを受け帰郷。その後父親は他界するが、それに発奮した如洋は、ただちに絵筆を握り一幅の山水画を描きあげ、明治32年の第3回内国勧業博覧会に出品、これが画壇への本格的なデビューとなった。
如洋は27歳で再び上京するが、日本画壇の中心は京都であると考え、京都に出て今尾景年に師事した。その後、明治期の主要な展覧会で上位の成績を収めていくが、次第に当時の画壇の主流を占めていた東京美術学校系や院展のあり方に疑問を持ち始め、己の画道の原点を探るべく中国に渡り、天津では1日に1000枚描くという「千画会」を開くなどし、4年間滞在して帰国した。中国滞在中には、第1回文展の審査委員に推挙されていたが、それを辞退、帰国後は画壇との関係を絶ち、水墨画一筋の道を歩み続けた。
野沢如洋(1865-1937)のざわ・じょよう
元治2年弘前袋町生まれ。本名は三千治。一戸忠三の四男。明治9年に三上仙年に画才を認められ入門、6年目に仙蘭の号を受けた。明治12年母方の野沢家に男子がいなかったため、養子に入った。明治17年城西小学校に勤務。この頃、東洋回天社に属し自由民権運動に参加。明治18年に巡査となるが、翌年免職。明治20年に絵の修業のために故郷を出て、盛岡、仙台、福島地方を経て東京に出たが、翌年病気のため函館で静養、その後北海道を周遊した。明治22年第3回内国勧業博覧会に出品。明治26年再び上京して滞在、翌年京都に行き今尾景年に師事した。この間、万国博覧会、勧業博覧会、日本青年会画協会、日本美術協会などの明治期の主要な博覧会、展覧会に出品、受賞を重ねた。明治37年に中国に渡り、南京、上海、天津、北京、漢口など各地を遊歴。天津では1日1000枚描く「千画会」を開催した。この頃、第1回文展審査委員に推薦されたが辞退。明治41年に帰国。大正7年、京都で「百馬会」を、大阪で「千馬会」を開催。大正8年に欧米を漫遊。その間、京都日出新聞に風俗・風景のスケッチに短信を添えて「欧米風俗画報」と題して60余回連載した。翌年ニューヨーク美術館、コロンビア大学、ナショナルアートクラブで美術講演と揮毫を行ない、その後帰国した。その後は大連、朝鮮にも渡り、京成では画会も開いた。昭和12年、72歳で死去した。
青森(25)-画人伝・INDEX
文献:青森県史 文化財編 美術工芸、野澤如洋と橋本雪蕉展、津軽の美術史、東奥美術展の画家たち、青森県史叢書・近現代の美術家、東北画人伝、青森県南部書画人名典