日本の篆刻は、明王朝滅亡に際して中国から亡命した黄檗禅僧によってもたらされ、17世紀中期以後に長崎に渡来した独立性易、東皐心越を祖に形成されたとされる。装飾的な技巧を主とした刻風だったが、のちに「印聖」と称される高芙蓉の出現によって一変し、芸術としての篆刻が展開されるようになった。
高芙蓉(1722-1784)は、甲斐国高梨に生まれた。生地は、現在の甲斐市竜王と推定されているが特定はされていない。祖父はもと水戸藩に仕え、父は医者だったが、芙蓉は医を好まず、宝暦元年、加賀藩前田家に嗣子付き儒官として仕えたという。加賀藩を致仕後江戸に帰り、その後は京都に住んで門生の指導にあたったが、宝暦11年に蓮池藩鍋島家に仕官した。
篆刻家のほかに、書家、画家としても知られ、池大雅の無二の友としてともに行動し、絵画のうえでも評価が高い。登山を好み、池大雅に韓天寿を加えて「三岳道者」と名乗り、白山、立山、戸隠山、浅間山、富士山などに登っている。雅号の「芙蓉」も富士山からきているとされる。
晩年に水戸支藩宍戸家に招かれ、天明4年3月末に一家あげて江戸に向かったが、道中病を得て江戸目白の藩邸に入って数日で没した。
高芙蓉(1722-1784)こう・ふよう
享保7年甲斐国高梨生まれ。父は医師。本姓は源。名は孟彪、字は孺皮、号は芙蓉、氷壑山人、中嶽畫史、萏函居、富岻山房などがある。通称は大島逸記(一時期は近藤斎宮)。郷里高梨の「高」を氏として、富士山から「芙蓉」と号したとされる。はじめは父を継ぐために医業の道に進んだが、文雅の道を志して京都に出て儒学を学び、柴野栗山、伊藤東所ら多くの学者、文人たちと交流した。有職故実や武術なども修めた。池大雅とは少年時代からの友人で終生親交があり、韓天寿と3人で白山、立山、富士山などに登山した。一時期、儒官として加賀藩、鍋島藩に登用され、晩年には水戸藩の宍戸家に仕えたとされる。天明4年、63歳で死去した。
山梨(04)-画人伝・INDEX
文献:山梨県立美術館コレクション選 日本美術編