福島コレクションで知られる美術評論家で画商の福島繁太郎(1895-1960)は、東京帝国大学を卒業後、パリに渡りエコール・ド・パリの画家たちと交流、彼らの作品をコレクションするとともに、ワルデマル・ジョルジュを主筆として美術雑誌「フォルム」をパリで刊行した。この間幾度も帰国し、日本の美術雑誌にも評論文を執筆、帝展や二科展に対する辛辣な批評を展開した。10年余りのパリ滞在を終えて昭和8年に帰国した福島だが、その頃にはすでに、既存の美術団体に対する体質批判から、個性ある新人を発掘することへと関心は転じていた。パリで収集家として接した画商たちのように、画家を育てながら世に出していくという生き方を選択したのである。
昭和24年、銀座にフォルム画廊を設立した福島は、開設記念展として山口県出身の香月泰男(1911-1974)の個展を開催した。香月と福島との交流は、昭和9年に香月が国画会に出品した作品を責任推薦で初入選させたことから始まり、パトロンと画家の関係とも、師弟関係ともいうべき関係を継続していた。昭和31年、香月は福島の熱心な勧めで渡欧し、カンヌにピカソを訪ねるなど現存の有力画家と接するとともに、ロマネスク、ゴシックの中世彫刻や絵画を研究した。その体験をもとにライフワークとなる「シベリア・シリーズ」の様式を確立し、以後没するまでシリーズ制作を継続した。
また、香月は東京美術学校藤島武二教室の1年後輩だった同郷の松田正平(1913-2004)を福島に紹介、松田は昭和26年にフォルム画廊で初個展を開催し、その後も同画廊で定期的に個展を続けた。福島は、フランスから帰国後の松田の作品をみてスーティン研究を勧めたという。
香月泰男(1911-1974)
明治44年山口県大津郡三隅村生まれ。幼いころに両親と生別した。小学生のころから画家を志し、川端画学校を経て、昭和6年に東京美術学校西洋科に入学、藤島武二教室に学んだ。在学中、国画会第9回展に出品した「雪降りの山陰風景」が福島繁太郎と梅原龍三郎の責任推薦で初入選し、これを機に福島と梅原との知遇を得た。以後も国画会に出品し受賞を重ねるが、昭和18年に教育召集兵として入隊、旧満州国興安北省ハイラル市に動員されたのち、終戦後にシベリアに抑留され、昭和22年に復員した。帰国後は山口で美術教師をつとめながら、国画会に毎回出品を続け、昭和34年、ライフワークとなる「シベリア・シリーズ」の様式を確立、没するまでシリーズ制作を継続し、昭和44年、このシリーズで第1回日本芸術大賞を受賞した。昭和49年、62歳で死去した。
松田正平(1913-2004)
大正2年島根県鹿足郡青原村生まれ。久保田金平の子。のちに山口県宇部市の松田清一の養子となった。昭和7年東京美術学校西洋学科に入学、藤島武二教室に学んだ。在学中に帝展に初入選し、昭和12年の卒業後は渡仏し、パリに住みアカデミー・コラロッシュで学びながら古典の研究をした。昭和14年の大戦勃発とともに大使館から帰国勧告を受けて帰国、昭和16年から国画会を作品発表の場とし、翌年国画奨学賞を受賞するが、太平洋戦争の戦局が深刻化したために帰郷、昭和21年山口県光市に転居して国画会出品を再開した。昭和26年に国画会会員に推挙され、フォルム画廊で初個展を開いたのを機に再び上京、その後も国画会出品とフォルム画廊での個展を続けた。昭和59年第16回日本芸術大賞を受賞。平成16年、91歳で死去した。
山口(18)-画人伝・INDEX
文献:戦後洋画と福島繁太郎、山口県の美術