新庄藩の絵師のうち、記録に残っている最も古い絵師は、町田雲平である。雲平はもとは米沢藩士だったが、新庄藩二代藩主・戸沢正誠に絵師として召し抱えられ、数々の名品を描いたと伝わっている。
新庄・最上地方の美術界が活気付くのは、幕末に町絵師・菊川淵斎が出てからである。淵斎は酒田に生まれ、仙台の画家・佐久間六所に学んだのち、江戸に出て狩野探淵に入門した。その後、酒田への帰郷の途中、新庄に宿泊した際、金沢町庄屋の広野氏や金沢八幡別当宝鏡院に請われて絵を描いたのが機縁となって、金沢町に永住することになった。
淵斎は、狩野探令や尾形芦香をはじめとした多くの門人を育て、明治後期から昭和時代までの新庄・最上画壇の繁栄期を現出した。
町田雲平(1678-1756)まちだ・うんぺい
延宝6年生まれ。元米沢藩士で、新庄藩の絵師となった。本名は舟岡太兵衛。松巌寺および桂獄寺の「釈迦涅槃図」や宮内七所明神の大絵馬「繋馬図」が残っている。宝暦6年、78歳で死去した。
菊川淵斎(1826-1891)きくかわ・えんさい
天保9年酒田生まれ。本名は丹治。はじめ仙台の佐久間六所の門に入ったが、のちに江戸に出て狩野探淵に師事した。長泉寺観音堂ほか多くの寺院・堂社に奉納された絵馬や、六曲半双屏風「楼閣山水図」のほか、掛け軸などが多数伝えられている。明治24年、65歳で死去した。
山形(16)-画人伝・INDEX
文献:最上の歴史、酒田市史史料篇第7集、郷土日本画の流れ展