大名の御用絵師といえば狩野派が圧倒的に多かったが、阿波の蜂須賀家では南画家の鈴木芙蓉を登用したり、江戸後期になると好んで住吉派を召し抱えたりした。住吉派は、室町時代に宮廷に仕えたやまと絵の流派・土佐派が江戸のはじめに分かれて誕生した流派で、徳島藩の住吉派としては渡辺広輝が最初の御用絵師となった。後継者としては、広輝の門に学び、のちに住吉広定について住吉派を学んだ守住貫魚(1809-1892)、佐香貫古(1812-1870)、鈴江貫中(1831-1868)らがいて、この三人を広輝門下三傑と称した。
渡辺広輝(1778-1838)わたなべ・ひろてる
安永7年阿波郡香美生まれ。名は八百次。家は代々勝浦郡本庄村に住み、父親の渡辺伯玄は医師だった。父と共に大坂に出ていたが、叔父が徳島寺町の善福寺で住職だったため少年時代はそこに寄宿して画を学んだ。成立書によると、矢野栄教の推薦で江戸に出て画を学ぶようになったとある。18歳の時に江戸に出て、寛政8年に住吉広行の門に入り、文化6年に正式に土佐流御絵師として召し抱えられた。主として江戸に住み、たびたび帰郷した。文化9年に帰郷して約一年間徳島にいたが、その時に善福寺の襖絵を描いた。また、文化13年には江戸で釈尊入滅の図を描き善福寺に送った。徳島県内に比較的多くの作品が残っている。天保13年、65歳で死去した。
佐香貫古(1812-1870)さこう・つらふる
文化9年生まれ。徳島幟町の人。徳島藩御用絵師、名は荒蔵。別号に広胤、定賢、恒斎がある。渡辺広輝に入門し、のちに住吉広定について住吉派を学んだ。画技にすぐれ、性格は温良で、酒豪だったと伝わっている。隠居後は、新町刻町、通町、大道などに居を移した。明治3年、59歳で死去した。
佐香美古(1839-1910)さこう・よしふる
天保10年生まれ。富田浦に住んでいた。佐香貫古の子。名ははじめ竹三郎、のちに壮介。別号に美香がある。はじめ父・貫古について学んだが、17歳の時に江戸に上がり住吉弘貫に入門して学んだ。帰郷後は洋画を研究した。明治43年、72歳で死去した。
鈴江貫中(1831-1868)すずえ・つらなか
天保2年生まれ。徳島常三島の人。徳島藩御用絵師、代々藩士の日帳格だった。名は安太郎、または康介。別号に広風がある。また樸斎、貫中の印で半漁と署名した作品もあるので、時に半漁と号したこともあると考えられる。祖父の章介、父の孝之助ともに手習師匠だったため、幼い頃から画を好んだ。渡辺広輝に入門し、さらに江戸に出て住吉広定の門に入り「定衡」と号し、のちに貫中と改めた。江戸にいる時は幕府は貫中を将軍家の絵師としようとしたが、たまたま兄が病死したため藩主に促されて帰郷、藩の絵師となった。藩主が諸侯に贈る絵の多くは貫中に描かせたという。酒を好み、酔っぱらっている時に画を命じられると、裸になって揮毫したという。明治元年、死去した。
徳島(13)-画人伝・INDEX
文献:阿波の近世絵画-画壇をささえた御用絵師たち、阿波画人名鑑