徳島藩御用絵師では、佐々木家の佐々木養郭をはじめ、矢野栄教、河野栄寿らは、幕府御用絵師の狩野派のうち最も繁栄したとされる木挽町狩野家の当主・狩野栄川院典信に学んだ。またその後も、記録でわかる限りすべての徳島藩の御用絵師は木挽町狩野家に弟子入りしている。御用絵師の系譜は、佐々木家をはじめ、矢野家、河野家、中山家と続いた。
矢野常博(不明-1756)やの・つねひろ
矢野家は、代々料理方を勤める下級藩士の家柄だったが、常博が絵が得意だったため、作品をたびたび蜂須賀家に献上していた。6代目栄教から正式に御用絵師を命じられた。
矢野栄教(1730-1799)やの・えいきょう
享保15年生まれ。常博の嫡子。幼名は九郎三郎。明和元年に、木挽町狩野家6代目・栄川院典信に入門し、明和4年、河野栄寿とともに御用絵師に任じられ、号を典信から一字もらい「栄橋」にし、その後「栄教」と改めた。藩主の重喜の絵の稽古相手をつとめ、重喜の娘、載と寿代にも絵を教えた。寛政3年には嫡子の伊籍を養川院惟信に弟子入りさせている。寛政11年、死去した。
矢野伊籍(1777-1811)やの・いせき
安永6年生まれ。栄教の嫡子。幼名は歓竹。寛政3年に木挽町狩野家7代目・養川院惟信に入門し、寛政4年に「歓良」と改名し、寛政8年には8代目・伊川院栄信から一字もらい「伊籍」と改めた。寛政11年に父が没したため、23歳で矢野家の跡目を継いだ。藩主の御前で席画をつとめたりしたが、帰国中の文化2年に病気になり、絵の修業を中断して療養した。文化5年に弟を養子にし、翌年木挽町狩野家8代目・伊川院栄信に入門させた。文化8年、35歳で死去した。
矢野伊章(1785-1840)やの・いしょう
天明5年生まれ。幼名は富之助、のちに玄適関。伊籍の弟だが、絵師を継ぐため養子になり、文化6年、木挽町狩野家8代目・伊川院栄信に入門した。文化9年に伊川院より字もらい「伊章」と改めた。江戸で絵の御用を勤めながら、阿波でも御川船の杉戸絵や屏風絵を描いた。天保11年に病死した。
矢野章三郎(不明-不明)やの・しょうざぶろう
伊章の後を継ぐため、木挽町狩野家9代目・晴川院養信に入門したが、後を継がないまま退身し出奔してしまう。矢野家は、伊章の没後、二男の冨之助が後を継いだが、絵の修業をしなかったため御用絵師御免となった。
河野栄寿(不明-1802)こうの・えいじゅ
河野家は、奥坊主や茶道方などを勤めた家柄で、栄寿は、佑筆を勤めていた3代河野平右衛門の四男。名は典雄。幼少の頃から画を好み、それを伝え聞いた峰須賀重喜から、明和元年、木挽町狩野家6代目・栄川院典信への入門を命じられ、明和4年、矢野栄教とともに御用絵師に任じられた。しばしば栄教と共同で仕事をしている。栄寿はいつからか阿波探幽と称されるようになった。享和2年、嗣子の河野伊雪(不明-不明)も絵師として仕えたと考えられるが、文化14年に江戸で出奔し、河野家は二代で断絶した。
中山養福(1805-1849)なかやま・おさよし
文化2年生まれ。名は鍮次、別号に竹窓がある。江戸留守居役中山百助一誠の二男で、母は斎藤氏だが、福岡黒田家の家臣の娘で、その妹が木挽町狩野家8代目・伊川院栄信に嫁いでいる。養福は狩野家の血縁者として、若くして木挽町狩野家に入門した。栄信は養福について、若齢だが後々恐るべき筆意がある、と語ったという。伊川院の没後は、引き続き9代目・晴川院養信、10代目・勝川院雅信のもとで絵を学んだ。阿波の絵師のなかで最も本格的に江戸狩野様式を修得したとされる。嘉永2年、45歳で死去した。
徳島(3)-画人伝・INDEX
文献:狩野栄川院と徳島藩の画人たち、阿波の近世絵画-画壇をささえた御用絵師たち、阿波画人名鑑