画人伝・長崎

唐絵目利広渡家の画系

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唐絵目利四家のひとつである広渡家は、武雄鍋島藩で御用絵師をつとめていた初代広渡心海に学んだ広渡一湖(1644-1702)に始まる。一湖は熊本の生まれだが、24歳で長崎に移り住み、心海が一時長崎に滞在していた際に画法を学んだ。一湖は末次姓だったが、心海とは親族の間柄だったため、心海の許しを得て、氏を広渡に改めることとなった。さらに一湖は、長崎に渡来した陳清斎にも学び、元禄12年唐絵目利兼御用絵師に命じられた。その後も広渡家は代々唐絵目利職を世襲し、長崎画壇の中心として活躍した。

広渡一湖(1644-1702)
正保元年生まれ。通称は小左衛門、熊本の人。細川越中守のお抱え絵師・末次弥次兵衛の弟。寛文7年、24歳の時に長崎に移り住んだ。その後、広渡心海が長崎に来遊して滞留していた際に、師事してその画法を受けた。一湖と心海は同族だったため、心海の許可を得て、広渡と改姓した。さらに延宝年間には、長崎に渡来していた唐人・陳清斎に画法を学んだ。長崎奉行所の御用などを勤めていたが、その功労によって、元禄12年、長崎奉行大島伊勢守在勤の時に、唐絵目利兼御用絵師に命じられた。元禄15年、59歳で死去した。

広渡湖笛(不明-1746)
広渡一湖の子。湖春の兄。玉壺斎と号した。本覚寺の山伏になり、成実坊と称した。花鳥人物山水すべて得意とし、自ら一家を成した。延享3年死去した。

広渡湖春(不明-1746)
広渡一湖の子。通称は伴助。長崎奉行永井讃岐守在勤の時に、父一湖の後を継いで唐絵目利兼御用絵師となった。延享3年死去した。

広渡湖亭(1717-1762)
享保2年生まれ。広渡湖春の子。通称は小平太。延享3年、長崎奉行田附阿波守在勤の時に、父湖春の後を継いで唐絵目利兼御用絵師となった。安永2年、46歳で死去した。

広渡重次平(不明-不明)
広渡湖亭の子。宝暦7年、長崎奉行坪田駿河守在勤の時に、唐絵目利見習役を命じられた。

広渡湖秀(1737-1784)
元文2年生まれ。通称は八平太、字は元厚。長崎画人伝によると、石崎元章に師事したとあり、古画備考25名画の部には、熊斐の弟子とある。宝暦12年唐絵目利見習となり、翌年唐絵目利兼御用絵師となった。天明4年、48歳で死去した。

広渡猪三郎(不明-不明)
広渡湖秀の子。石崎元章に師事した。

広渡湖月(不明-1807)
広渡湖秀の子。通称は八左衛門、字は清輝。熊斐の高弟である真村蘆江に師事して南蘋風の画法を修めた。文化4年死去した。

広渡虎蔵(不明-不明)
石崎融思に学び、唐絵目利になった。

広渡作三郎(不明-不明)
石崎融思に学び、唐絵目利になった。

広渡為八郎(1795-1860)
寛政7年生まれ。石崎融思に学び、唐絵目利となった。文久元年、66歳で死去した。

広渡湖峰(不明-不明)
広渡系の画人に師事して広渡の名称を譲り受けたと考えられる。

広渡大輔(1806-1844)
文化3年生まれ。通称は大輔、諱は元貫。出島組頭を勤めていた川村伊兵衛の子で、唐絵目利の広渡為八郎の養子になった。弘化元年、39歳で死去した。

広渡丈輔(1826-1846)
文政9年生まれ。大輔の跡を継いで唐絵目利になった。弘化3年、21歳で死去した。

広渡桂洲(1833-1866)
天保4年生まれ。もと小林氏。はじめ敬蔵といい、さらに盛之助と改めた。諱は宗信、字は子恭。居を吟秋軒と称し、吟秋軒主人とも号した。はじめ叔父の荒木千洲に画法を学び、養子となり、さらに広渡姓を名乗った。広渡氏由緒書では広渡大輔の弟となっいる。嘉永元年、大輔の跡を継いで16歳で唐絵目利となった。慶応2年、34歳で死去した。

黒川正山(不明-不明)
『長崎人書画源流』に広渡一湖の弟子とある。

西村嬾竜(不明-不明)
『長崎人書画源流』に広渡一湖の弟子とある。

文献:唐絵目利と同門、長崎絵画全史

唐館図蘭館図絵巻―長崎県立美術博物館蔵
長崎文献社







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