画人伝・島根 南蘋派

石見の南蘋派・三浦紫えんと門人

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石見地方の南蘋派としては、津和野藩士の三浦南溪・紫☆親子がいる。父の南溪は江戸に南蘋派を広めた宋紫石に学び、藩の御用絵師をつとめた。子の紫☆(「☆」は「田」+「宛」、以下同様)は、父の没後に宋紫山に入門し、南蘋派の画風を学び、花鳥図、特に孔雀画を得意とした。三浦親子の画風は、紫石画の特徴である細密描写や構図法からは変容し、独自のものとなっている。門人に大谷雲亭(1837-1886)、永安薫☆(不明-1862)らがいる。

三浦紫☆(1773-1856)
安永2年津和野生まれ。父は三浦南溪。名は辰種。通称は恒助、のちに教と改めた。初号は蘭☆、別号に幽谷亭がある。天明7年に父南溪が没したため、家督を継ぎ翌年には藩主から家業を継ぐように命じられ、寛政3年から江戸藩邸に勤務し、宋紫山に入門して画法を学んだ。文化3年、幕府の測量方が益田高津浦に派遣された時に、その応接、待遇などを仰せつかり、製図そのほかの便宜を計った。同4年、紫山の遺言によって「紫」の字を冠することを許され、号を「紫☆」に改めた。弘化2年、津和野永明寺の客殿、庫裏などの改築に際して障壁画を描いた。安政3年、85歳で死去した。

三浦南溪(不明-1787)
津和野藩士。三浦紫☆の父。名は守倚、通称は恒助、あるいは哲之助。別号に石延年がある。明和年間に藩命により楠本雪溪(宋紫石)に師事した。天明7年死去した。

三浦楚☆(1804-1832)
文化元年生まれ。三浦紫☆の子。通称は巴之助、名は直幸、字は生軒。父に画を学んだ。天保3年、29歳で死去した。

永安薫☆(不明-1862)
通称はシゲ。鹿足郡六日市庄屋・永安仲右衛門の妻。父は津和野の庄屋・澄川紋平。幼いころから画を好み、三浦紫☆の門に入って学んだ。文久2年死去した。

斎川芳☆(1804-1892)

文化元年生まれ。通称は平内。種村の庄屋。40歳のころに役務の余暇に三浦紫☆に師事して画を学んだ。墨画の竹を特に得意とした。明治18年、89歳で死去した。

大谷雲亭(1837-1886)
天保8年那賀郡周布村生まれ。通称は貞造。初号は玉☆。14歳から5年間、三浦紫☆に学び、ついで長崎で3年間修業したのち、京都の南画家・前田暢堂に入門して5年間学び、全国を漫遊した。九州漫遊の際にたびたび直入、五岳の門に出入りしていたため晩年の画風は直入に似ているといわれる。明治19年の内国勧業博覧会で銅牌を受けた。明治19年、50歳で死去した。

文献:島根の近世絵画展島根の美術、島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典

日本の美術 no.326 宋紫石と南蘋派
至文堂







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