出雲の狩野派は、狩野永雲の画系が途絶えたのち、時代が下って木挽町狩野の狩野伊川院栄信に学んだ飯島雲岳(不明-不明)が御用絵師として文化年間に活躍、雲州狩野派屈指の妙手と称された。また、松江西山家四代の西山英眠(1767-1843)は狩野養川院惟信に、西山家五代の西山孟郷斎(1799-1870)は狩野伊川院栄信に学んで御用絵師をつとめた。幕末になると、松原寛泉斎(1819-1888)や陶山勝寂(1828-1877)が江戸に出て狩野勝川院雅信に学び、弟子たちにその画法を伝えている。
飯島雲岳(不明-不明)
松江雑賀町の人。松江藩御用絵師。通称は助九郎、名は養重。狩野伊川院栄信に師事し、雲州狩野派屈指の妙手と称された。門人に松本晩翠、山岡蒼雪がいる。子の華岳は牧松斎と号して父の画法を伝えた。
松本晩翠(1824-不明)
文政7年生まれ。松江の人。通称は歓吾。飯島雲岳に師事した。
山岡蒼雪(不明-不明)
松江市中原町の人。通称は金堂。飯島雲岳、陶山勝寂に師事した。明治15年頃に死去した。
飯島華岳(不明-不明)
松江の人。通称は忠五郎。飯島雲岳の子。父に画法を学んだ。別号に牧松斎がある。
西山英眠(1767-1843)
明和4年松江生まれ。松江西山家四代。名は惟則。惟次、忠次ともいった。幼名は与三之助、喜助、其太。天明4年に江戸に出て狩野養川院惟信に師事した。別号に養珉、梁珉がある。天保14年、77歳で死去した。
西山孟郷斎(1799-1870)
寛政11年松江生まれ。松江西山家五代。松江藩御用絵師。通称は其太。文政元年江戸に出て狩野伊川院栄信に師事した。松平斉斎に仕え鷹の図をよく描いた。天保10年に藩主から幕府へ献上した屏風の画を描いたことで名高い。明治3年、72歳で死去した。
竹内甫記(不明-不明)
松江の人。竹内春山の父。江戸に出て狩野随川甫信に師事した。随春甫記と号し、法橋に叙せられた。
竹内春山(1743-1817)
寛保2年松江雑賀町生まれ。通称は典隆。竹内甫記の子。別号に白鳳翁、白玉斉、雲君子などがある。狩野栄川院典信に師事した。文化14年、75歳で死去した。
松原寛泉斎(1819-1888)
文政2年八束郡八雲村生まれ。通称は金三郎、のちに称と改めた。名は豊美。米田友次の子で、熊野神社の神官。弘化4年江戸に出て、狩野勝川院雅信に師事した。諸国を遊歴し、嘉永4年に帰郷した。明治15年の第1回内国絵画共進会などに出品した。明治21年、73歳で死去した。
陶山勝寂(1828-1877)
文政11年生まれ。松江藩御用絵師。名は雅純。江戸に出て狩野勝川院雅信に学び、橋本雅邦、狩野芳崖と同窓だった。別号に円々亭がある。門人に石村東秀、山岡蒼雪、神庭松嶺らがいる。明治10年、50歳で死去した。
石村東秀(1828-1872)
文政11年生まれ。通称は良七。松江市雑賀町に住み、旧藩の御板前方をしていた。陶山勝寂に画を学び、華道、茶道にも通じた。明治5年、45歳で死去した。
山岡雲峯(不明-不明)
松江市石橋町に住み、堀江友声、陶山勝寂に師事した。
神庭松嶺(不明-不明)
名は雅義。別号に松齢がある。陶山勝寂に師事した。
陶山雅文(不明-不明)
松江の人。陶山勝寂の子。父の画法を継いた。明治10年の日付で描いた「松江城絵図」が残っている。
島根(2)-画人伝・INDEX
文献:島根の美術家-絵画編、島根県文化人名鑑、島根県人名事典、出雲の藩主とお抱え絵師・職人展