清水節堂(1876-1951)は、浅井郡大路村(現在の長浜市大路町)に生まれた。12歳の時に隣村の中川耕斎に師事し、耕斎のもとで数年間学んだのち一時京都に出たが、21歳の時に東京美術学校絵画科に入学し、本格的に画を学びはじめた。
貧困のため一年足らずで美校は退学したが、その後も同校の教官だった橋本雅邦に師事して画業を続け、各地での写生や古画学習を重ね、東京・関東を中心に活動していたと思われるが、昭和22年に帰郷するまでの足跡は不明な部分が多い。
交友関係は広く、特に公家との交流を持ち、天皇家にも絵画を献上している。信仰心に篤い人物だったようで、現存する作品からも、信仰と画業は一体だったと思われる。各地を遊行して寺社仏閣を訪ね、その先々の宗教関係者から揮毫を求められている。
帰郷後は神職と画業を両立し、湖北の商人らの求めに応じて画を描き、数々の作品を郷里に残している。掲載の「幽霊図」は、郷里に残る節堂の代表作の一つで、展覧会図録などで傑作幽霊画と紹介されることもあったが、長く「作者不詳」とされていた。
清水節堂(1876-1951)しみず・せつどう
明治9年浅井郡大路村(現在の長浜市大路町)生まれ。はじめ中川耕斎に師事し、その後東京美術学校に入学した。同校は1年足らずで退学したが、その後も同校教官だった橋本雅邦に師事した。経歴に関しては不明な点が多い。昭和22年帰郷した。昭和26年、75歳で死去した。
滋賀(29)-画人伝・INDEX
文献:浅井の画人・清水節堂