片山雅洲(1872-1942)は、伊香郡藤西物部村(現在の滋賀県長浜市)の農家の長男として生まれた。高等小学校卒業後、昼は農作業に汗を流し、夜は浮世草紙を読み、葛飾北斎や柳川重信の挿絵を描き写す日々を送っていた。
農閑期になると隣村の画家・戸田北堂について画の手ほどきを受け、「雲峰」と号して自宅の襖などに画を描いていたが、本格的に画を学ぶため、23歳の時に京都に出て幸野楳嶺に入門した。しかしその翌年楳嶺が没したため、今尾景年の塾に入り「徹巌」と号した。
景年のもとではすぐに頭角を現し、明治29年と翌30年に日本美術協会と絵画共進会で受賞し、さらに志を高く持った雅洲は東京に出て橋本雅邦に師事した。師に1字もらい「雅洲」と号し、画業一筋に歩もうとしたが、家の事情により明治32年に帰郷し、帰農した。
その後再上京することはなかったが、京都建仁寺の黙雷和尚に参禅し、湖東永源寺の学僧芦津石蓮に詩文を学んだ。農作業に精を出し、ひまをみつけては画を描き、農閑期には古寺をめぐった。博物館で和漢の名画を模写し、風俗画も手掛け、村人に求められれば画を描く悠々自適の生活を送った。
片山雅洲(1872-1942)かたやま・がしゅう
明治5年伊香郡藤西物部村(現在の滋賀県長浜市)生まれ。生家は農家。本名は清次郎。別号に雲峰、徹巌、片山璞、画魔、画魔変人などがある。明治20年森内小学校卒業。はじめ隣村の戸田北堂に学び、明治22年京都に出て幸野楳嶺に師事、楳嶺没後は今尾景年に師事した。明治29年日本美術協会展で褒状2等、翌年京都後素協会主催の全国絵画共進会で褒状1等を受賞。明治30年東京に出て橋本雅邦に師事。明治32年の帰郷後は再上京することなく、郷里で農業のからわら画を描いた。昭和17年、71歳で死去した。
滋賀(28)-画人伝・INDEX
文献:近江の画人、近江の画人たち