肥前佐賀藩においては、初代藩主・鍋島勝茂、三代・綱茂、八代・治茂の代に比較的多くの絵師の名前がみられる。しかし、藩御用絵師の世襲、または門人らによる画風の継承はきわめて断続的だったようである。初代藩主の勝茂の時代には、葉山朝湖、狩野友巴、大園明政、小原友閑斎、広渡雪山らが藩の絵師として名前が残っているが、葉山朝湖(不明-不明)は、藩主の命によって江戸で狩野派を学び江戸に住んでいた時に、藩に対する謀反を企てていたことが発覚、嘉永14年頃に切腹、家系は断裂している。狩野友巴(不明-1654)の跡は門人の大園明政が継いだが、明政は明暦3年に勝茂に殉死したため、その後は続いていない。承応2年に藩絵師となった広渡雪山(不明-1674)も、佐賀本藩においてその跡を継ぐものはいなかった。明暦2年に藩絵師となった小原友閑斎(不明-不明)は、その系譜をつなげてはいたが、享保年間になって子孫の友閑が贋札を作ったことにより家系は断絶、一門による継承もなかった。
葉山朝湖(不明-不明)はやま・ちょうこ
龍造寺豊後守信親の二男。本名は藤井氏、のちに姓を葉山と改めた。通称は二介。藩主の命により江戸で狩野派を学び、絵師として仕え江戸に住んでいた。寛永14年頃、藩に対して不穏な謀計を企てたのが発覚、妻子郎党とも佐賀に送還され、のちに切腹を命じられた。唐の李瀚撰の書「蒙求」の故事を好んで描いていた。また、加藤清正の求めに応じて熊本城の障壁画を描いたとも伝わっている。
狩野友巴(不明-1654)
名は友坡、または宗俊。本姓は甲斐氏。朝鮮の役に従ったと伝わっている。承応3年死去した。
大園明政(不明-1657)
名は七兵衛。狩野友巴の門人。明暦3年初代藩主・鍋島勝茂に殉死した。
小原友閑斎(不明-不明)こはら・ゆうかんさい
名は有信。明暦2年より佐賀本藩の絵師となった。鍋島家所蔵の「河上之図」、佐賀市与賀神社所蔵の「七夕の図」などが知られている。
広渡雪山(不明-1674)ひろわたり・せつざん
祖先は九州探題渋川氏の一族の家来で、藤津郡大草野に渋川氏が浪居するのに従って大草野に住んだ。父の弥左衛門は、画を得意とし、武雄城主・後藤家信に仕えた。雪山は、はじめ武雄鍋島家の絵師として仕え、のちに佐賀本藩の御用絵師となった。朝鮮の役に軍功があり、寛永14年の島原の役には、兄の万右衛門とともに絵図方として従軍したと伝わっている。兄の没後、その未亡人を妻として跡を継いだ。周継雪村の門人と伝えられ、雪村の画風を慕い、墨竹梅、山水をよくした。延宝2年死去した。
佐賀(1)-画人伝・INDEX
文献:肥前の近世絵画、郷土の先覚者書画