
「八千草会色紙」左から木谷千種、清水千都世、三露千萩
八千草会は、大正9年に木谷千種(参考)が後進の女性画家育成のために大阪の自宅に創立した画塾で、芸術を志す女性が助け合い、男性と伍していくことを理念とした。人物画だけでなく花鳥画も教え、外部講師に美学者や洋画家の赤松麟作(参考)らを招き、美術の基礎知識や歴史、デッサンなども学ばせた。
掲載の「八千草会色紙」は、木谷千種と弟子たちが描いたもので、その大半は大正末期から昭和初期にかけて制作されている。弟子作品の多くは花と女性を題材としており、現在のところ色紙だけで絵が知られている者もいる。
三露千萩(1882-1952)みつゆ・ちはぎ
明治15年滋賀県生まれ。船場で織物商を営んでいた実業家・三露久兵衛の一人娘。本名はたみ、通称は民子。別号に昌園がある。早く生母を亡くしたが、船場で裁縫、盆石、華道、茶道、長唄、三味線など数多くの稽占事に精励して育った。21歳の時、久兵衛を襲名することになる光安幾太郎を婿に迎え、三男二女の母となったが、邦楽などの趣味をさらに深めた。大正中期以降は四条派の花鳥画を庭山耕園の塾で学び、女性画を木谷千種の八千草会で娘たちとともに学んだ。昭和元年の長女千鈴没後、木谷千種と交流を保ちつつ、日本画制作は次第に女性画から花鳥画に重点を移し、二女フサ(貞園)とともに、三露昌園として大阪三越で開催された庭山耕園社中展を制作発表の場とした。昭和27年、70歳で死去した。
→参考:UAG美人画研究室(三露千萩)
三露千鈴(1904-1926)みつゆ・ちすず
明治37年大阪市東区北久太郎町生まれ。三露千萩の長女。本名はハナ、通称は花子。大阪府泉北郡高石町羽衣に住んだ。母とともに庭山耕園塾で花鳥画を学び、その後、母、妹とともに木谷千種に師事した。大正12年日本美術展覧会に入選し久邇宮家に献上。同年第2回白耀社展出品、同3回展にも出品した。大正14年大阪市美術協会第3回展出品。大正15年八千卓会第1回試作展に出品。同年受洗してキリスト教に入信した。病に倒れ、昭和元年、22歳で死去した。
→参考:UAG美人画研究室(三露千鈴)
原田千里(1905-1993)はらだ・ちさと
明治38年大阪市難波新川生まれ。本名は美智恵。大阪市難波第一尋常高等小学校を卒業後、木谷千種に師事し、八千草会研究所の常任幹事をつとめた。大正11年第1回白耀社展に出品、以後2回展、3回展に出品。大正11年第4回帝展に初人選。大正13年大阪市美術協会第1回展に出品。昭和2年頃大阪市浪速区新川、昭和7年には下岡町に住んだ。大正15年第1回八千草会試作展出品。昭和2年第2回八千草会試作展に出品。昭和7年には土田麦僊(参考)の門人となり、麦僊没後は安田靫彦(参考)、小倉遊亀(参考)についた。昭和11年再興第23回院展に出品し、以後28回展、29回展に入選し、昭和17年院友に推挙され、その後20数回入選し、昭和56年特待に推挙された。平成5年、88歳で死去した。
→参考:UAG美人画研究室(原田千里)
藤井清香(1895-不明)ふじい・せいこう
明治28年大阪生まれ。本名は梅子。木谷千種に師事した。大正11年第3回女流展出品。
清水千都世(不明-不明)しみず・ちとせ
木谷千種に師事した。大正15年第1回八千草会試作展出品。昭和2年第2回八千草会試作展出品。
多田千浪(不明-不明)ただ・ちなみ
本名は郁子。木谷千種に師事した。大正11年第1回白耀社展出品。第3回展にも出品。大正13年大阪市美術協会第1回展出品。大正13年第10回大阪美術展覧会出品。大正15年第1回八千草会試作展出品。昭和3年第2回八千草会展出品。大阪市天王寺区伶人町に住んだ。
住吉千秋(不明-不明)すみよし・ちあき
木谷千種に師事した。大正12年第2回白耀社展出品。3回展にも出品。大正13年第11回大阪美術展覧会に入選。
西口喜代子(不明-不明)にしぐち・きよこ
木谷千種に師事した。昭和2年第2回八千草会展出品。同3回展、4回展にも出品。
菅野千豊(不明-不明)かんの・ちとよ
木谷千種に師事した。昭和2年第2回八千草会展出品。
大阪(127)-画人伝・INDEX
文献:大阪の日本画、女性画家たちの大阪、島成園と浪華の女性画家